「国家はなぜ衰退するのか」第12章
悪循環
<この章のお題>
貧困を生む制度は、いかにして負のフィードバック・ループをつくって持続するのか。
<この章の副題、まとめ、気になった箇所>
もうボー行きの列車はない:
1896年〜1980年のシエラレオネでは、全土がイギリスの植民地だったが、現地の首長たちの蜂起を経て1961年独立。独立後の権力はSLPP(シエラレオネ人民党)に委譲された。その後、勝利した北部出身のスティーブンス率いるAPC(全人民会議)は独裁を行った。南部のボー行きの鉄道路線を廃止するなど、それまでの経済成長を犠牲にした。
さらに、ココアとコーヒー農家から販売委員会を経て収入の90%を政府が搾取した。1930年に国内でダイアモンド発見後、イギリスがシエラレオネ選鉱会社を作ったが、事業は現地政府のものとされた。国の独立後には、国立ダイアモンド採鉱会社を設立。会社の51%は政府、すなわち、スティーブンスが所有していた。
これは、植民地から続く収奪的制度を、独立後も連続して採用した例である。
エンコミエンダ(強制労働)から土地の収奪まで:
1871年〜1993年のグアテマラを見る。1993年カルピオ政権下の閣僚は16世紀のコンキスタドール(植民地の支配者)直系の子孫たちだった。植民地の独立は一般に、以前からいる現地のエリートによるクーデターが発端となるケースが多い。
グアテマラのコーヒー生産には土地と労働力が必要である。1873年当時の与党である自由党は、土地を先住民から収奪してエリートの知人へ売却し、先住民を労働力として利用した。
1931-1944年に大統領だったウビコは、商業に反対。その後、1986年の民主化までは内戦が続いた。先住民のマヤ族の大半は労働に明け暮れ、教育や公共サービスを受けられない状態が続いている。これも、悪循環の国の一例。
奴隷制から黒人差別へ:
1860年から1960年の合衆国南部では、南北戦争後も黒人を労働力とする南部のエリート支配が続いていた。鉄道密度は、合衆国北部が南部の3倍であった。南部は特許件数が少ないことからイノベーションも滞っていたことがわかる。
1865年アラバマ州で黒人取締法が制定された。人種別の学校を定めた法律は、なんと2004年にも存在した。奴隷制廃止後も、実質的に黒人の労働力はエリートのプランテーション主に搾取され続けた。
寡頭制の鉄則:
1974年までのエチオピアはソロモン王朝下、これといった経済発展がなかった。デルグ(軍事調整委員会)がクーデーターを率いたが、その後政府高官の殺害を開始。エチオピアは「社会主義国家」であると宣言し、国内資産の国有化を進めた。これも悪循環の一例。
負のフィードバックと悪循環:
収奪的制度は、その富と権力を狙う別の勢力が、内戦を引き起こす。しかし、悪循環は必ずしも断ち切れないものではない。