2000年7月。
「大丈夫か。これでも飲んで消毒しろや。」
と、マルク コランがボトルを一本差し出して言った。「よかったな。」
そんな彼の心遣いが嬉しかった。私はもらったボトルに、写真展からその日までの重みを感じていた。実はあの後、体調を崩して日本に一時帰国し、入院、8ヶ月もブルゴーニュから遠ざかっていた。そして久し振りに舞い戻り、まずマルクに会いに来た。彼のモンラッシェ同様、何処までも寛大で繊細な人柄に、他の誰よりも先に触れたかったから。
とにかく、酷い目にあった。冬場のスペインの生ハム作りの祭典でギフエロを訪れ、主催者の祝宴へ招待されるが、そこでケイコの「私、肉を食べない」のとんでも発言に一同唖然。えー、こんなところで他に何があるんだよ、と次から次へと出てくる豚肉料理がダブルで約二十品、私の前に集合する。そのご馳走に大喜びしたのは私よりも悪玉菌達。奴らはバリバリに栄養を取ると、その夜大暴れで、私の腹部の一部を異常な程に腫れ上がらせた。ああ、痛い、苦しい!
まるで時限爆弾のスイッチが入ったかのような、急激な病状の悪化だった。それでもなんとかフランスへ戻り検査を受けるが、誰も結果をちゃんと教えてくれない。そんな中、私の体力の衰えを見かね、ジャン・ジャック ジュトゥーが慌てて私をモナコのプランセス グレース病院へ連れて行くが、ここも病院側の態度がはっきりしない。結局、業を煮やし、私は免責書に署名し、出てきてしまった。そして日本へ戻ることを決めた。後は友人の手配に従い、診察を受け、告知された。
「癌です。すぐ手術しなければ助からない。」
でも、さほど驚きも慌てもしなかった。ただ手術が嫌で脱走したかっただけ。が、結果的に救われた。それにしても、フランスの医療関係者の対応は、一体何?。あのままフランスにいたら、私はきっと死んでいた。告知しないなんて、思い上がりの偽善がとる行為だ。患者に対する敬意がない。後にマダム ルロワに会った時、彼女も言っていた。
「私の主人は今闘病中。医者は癌であることを知らせるなと言ったけど、五十年も連れ添った人よ。隠すなんてできなかった。」
フランスでは家で人が死にそうになると、「家で死なすな。病院へ連れて行け」となる。ほぼ、本人の意思は無視だ。そんな国で死にたくないが、生還し、もうじき十九年になる。