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スポーツと性自認至上主義
岩波書店がこんな投稿をしているのがトランスヘイターの間で話題となっていました。
「女子スポーツの発展を妨げてきたのはスポーツ界の男性支配構造であり、生物学的決定論であり、女子スポーツを見下す社会全体の態度であり、トランス女性ではない」
— 岩波書店『世界』編集部 (@WEB_SEKAI) June 9, 2024
井谷聡子「トランス排除の潮流ーー脅かされているのは『女子スポーツ』ではない」#岩波世界 pic.twitter.com/dysbNvvb1H
私にとってもこれは正直意外だった。
というのは、こと日本においてはトランス活動家であってもトランス女性のスポーツ参加についてそれほど積極的なことを言ってるのはあまり見ないからだ。
日本においてはトランスの権利などまともに考えてる人がほとんどいない一方で、トランス女性の扱いを「おもしろネタ」程度にしか考えてない人が多すぎてスポーツの話どころではないというのが現状ではないだろうか。
私自身がトランス女性でもシス女性でもないのでこの問題にあまり言えることはないのだけど、ただ一点、いえるのはこの議論に公平性の視点があまりにかけているのではないかということ。
女子スポーツにおいて、トランス女性でない人たちをトランス女性だといいはったり、とんでもないデマが横行しているのはくり返し書いてきました。
女性スペースを守る会など、トランスヘイトを扇動している集団は「性自認至上主義」などというワードを捏造して「トランスジェンダリズム」というものを本来の意味ではない誤用として広めている。
「性自認至上主義」というワードはつまり、「自分の性自認が女性だといえば女性なんだ」という主張を指していることが多いようで、トランス女性の参加が性自認至上主義であると主張するわけですが
それは、論点はあくまで「法的女性」と「女性スペース、女子スポーツ」のことなのに、
— 滝本太郎 (@takitaro2) November 12, 2023
性自認至上主義者側が「トランス女性は女性だ、女性として遇せよ」との運動をしているからですな。
男性は女性になれない、女性は男性になれない、と言えば差別だとされもする。
なんなんだかです。 https://t.co/hVuIggDvOZ
少なくともオリンピックなどの世界的な公式競技では「性自認が女性であれば女性だ」という立場は取っていません。
それらの競技では男性ホルモンの値が一定期間に渡って基準値以下であることが女子スポーツ参加の条件です。
これは、いくら「自分の性自認が女性だ」と言い張っても男性ホルモンの値が一定の期間基準値を下回っていないと参加できないよ、という意味であり、数値化可能な基準によって女性スポーツに参加できるかどうか判断するよというのはむしろ「自分の性自認が女性だといえば女性だ」という思想とは対極にあると言っても良いのではないでしょうか。
なぜ「性自認至上主義」を批判する側がこれに気づかないのか、はたから見ると不思議で仕方がないわけです。かりに「性自認至上主義者」なるものが実在したとして、それらの人たちが、トランス女性をホルモン量で線引することを良しとすると思っているのだろうか。それを良しとするならもはやそれは「性自認至上主義」などではないのではないだろうか。実際のところかれらは「トランスを擁護するやつはみんな性自認至上主義だ」という雑な思想で他人を攻撃しているだけなのでしょう。
もちろん、男性ホルモンの基準値や測定期間をどう設定するか、という論点で科学的な根拠をあげてトランス女性の女子スポーツへの参加に反対するのは極めて正当なことであり、そこを批判する人などほとんどいないでしょう。
問題はそのような繊細な議論をすべてすっ飛ばして「トランスジェンダリズムだ」「性自認至上主義だ」などと意味のわからないことを言ったり「女消し」などという陰謀論をばらまいている人たちであり、それらの人々がトランスヘイターと呼ばれるのは当たり前のことであろう。