「チマチョゴリは着てません」
大晦日に放送された紅白歌合戦の映像を見たネトウヨが、新年早々やらかしたようです。
伊藤沙莉さんのきているドルチェ&ガッバーナのドレスを見てチマチョゴリだと勝手に思い込んで「朝鮮歌合戦」などと煽っているのが確認できます。
ネトウヨをこじらせるとなんでもかんでも韓国を応援しているよう見える病にかかるというのがよく分かるツイートですね。
新年のお笑いネタとしては満点の出来でしょう。
当然のことながら、本人のアカウントからチマチョゴリじゃないよという指摘がされているのですが
チマチョゴリは着てませんというただの事実の指摘に対してなにやら不満がある人達がいるようです。
チマチョゴリを着ていないという主張によってネトウヨがアホであることがよくわかったというのに、「チマチョゴリを着ているのは問題がある」といっているネトウヨではなくて、チマチョゴリは着ていないと言った本人を糾弾しようというのはネトウヨと同レベルじゃないかと私は思いました。
たとえば「チマチョゴリなんていうへんなものは着てません!」とかいう投稿だったら「ちょっとまてそれは差別に乗っかってる」と指摘するのは正当でしょう。
しかし、「チマチョゴリは着てません」からそのような悪意を読み取るのは不可能ではないでしょうか。
チマチョゴリではないかという疑いを否定されたことによって傷つく人が仮ににいたとして、その傷つきを「着てません」といっただけの人に責任を負わせるのはいくらなんでも厳しすぎではないでしょうか。総理大臣クラスの権力者ならまだしも、ただの芸能人の一人なわけですよ。私はむしろそのようなことを主張している人のほうが暴力的に感じます。
せいぜい、「自分だったらチマチョゴリでも問題ないと表明するのになあ」くらいの感想に留めるべきではないでしょうか。
ここまでだだと「渡辺直弼が差別主義者を擁護している」とか言いたがる人がいるかも知れませんが、たとえば次の指摘はどうでしょうか。
「チマチョゴリは着てない」とかいた伊藤沙莉さん自身が韓国ルーツのハーフだという噂です。
裏を取ろうとしてネットであれこれ調べたんですが、結局わたしには裏は取れませんでした。
同様の噂をしているサイトは複数確認しましたが、根拠は本人のアカウントで昔それっぽいことを投稿していた、ということだそうです。投稿は残っているので見ることはできるのですが、リプを入れている相手の文脈がわからないので何について語っているのかが不明なので判断は保留しています。
で、伊藤沙莉自身が韓国ルーツかどうかは真偽不明だったわけですが、重要なことは、「チマチョゴリは着てない」というだけの投稿が差別に加担しているという主張には、「伊藤沙莉が韓国ルーツではない」という決めつけが入ってはいないか?という点です。
ちょうど私のnoteでも最近、トランスジェンダーの当事者である李琴峰さんがトランス差別をしていると、自称「反差別」の人々から糾弾された事件を書きましたが
伊藤沙莉さんについても、李琴峰さんと同様の決めつけが発生しているのではないでしょうか?
たしかに「チマチョゴリは着ていない」と投稿することが差別に加担していると批判することが正当な場合が存在しないわけではないです。
ただ、それが差別に加担しているかどうかについては、本人の属性や文脈など、もっと様々な条件が考慮されるべきではないでしょうか。なぜ、いまの段階で、そこまで強い批判ができるのか、私には全く理解できません。
SNS上の自称反差別の人々が、「差別だ」と他人を糾弾することにたいして、あまりにも軽率になっているのではないでしょうか。そのような「反差別ごっこ」は、マイノリティですら不幸にする可能性があるのではないでしょうか。
この点について、軽率に差別を糾弾している皆様には一旦立ち止まって考えていただきたいです。
追記(2024/01/04)
左翼やリベラルの間で、キアヌ・リーブスやレディガガが「疑惑」を否定しなかったことを例に上げるのが流行っているので一言追記しておきます。
たしかに、自分に対してかけられた「疑惑」を否定しなかったキアヌ・リーブスとレディガガは素晴らしいと評価すべきだし、そこに間違いはないでしょう。
ただし、それはキアヌ・リーブスとレディガガだからこそできたことであり、その他の人にはその人に固有の事情があって当たり前ではないでしょうか。その人個人に固有の事情を一切考慮せずに、キアヌ・リーブスやレディガガのような傑出した人物と同じ行動を取れと迫ることは、それ自体が暴力ではないでしょうか。
事実でない噂を流されたときに、その噂は事実ではないと否定する権利は誰にだってあります。キアヌ・リーブスやレディガガと同じ行動を取れなかったからと言って、それが即座に差別に当たるというわけではありません。事実を明らかにする行為事態を差別だとすることは不可能でしょう。
批判すべきなのは、差別的な噂を流しているやつのほうであることは絶対に忘れてはならないと、私は思います。