「できる」と「できない」のあいだ
完全にあきらめていた。できるような気がしない。ってか、何がどうなったら正解なのかがわかんない。景色が逆さまになったとたん、自分が今どうなってるのかさえ、わかんないんだから。
「この次の体育の授業は、逆上がりのテストをします。1分間に何回できるかのテストです。できない人も、あきらめずに放課後残って練習してください」
そんなテストいる?それでなくても体育、大っ嫌いなのに。放課後までやんなくちゃいけないの?だいたい逆上がりができなくて、人生困ることなんてある?
ひとり校庭で鉄棒と格闘していると、クラスの男子が通りかかった。
「あれ?逆上がりできないんだっけ?」
できないんだよ!いいから早く帰ってよ。からかうつもりなら、ぶん殴るよ!
「簡単じゃん。いい?見ててよ!」
ランドセルを放り投げ、鉄棒を握ったとたん、もう回ってる。うん。上手いの知ってる。今までだって、ずっと見てた。ただ、どうしたらそうなるかが、わかんないんだよ。いいよ、もう。
「ちょっと、やってみて」
え?やだよ。できないもん。いいからほっといてよ。早く帰って宿題やんなさいよ。
「ねー。なにやってんのー?」
ほーら、みんな集まって来ちゃった。いつもの連中だ。
…
広場の近くに住んでいた。学校から帰って宿題をしていると、玄関のチャイムが鳴る。
「人数、足りないんだ。今、遊べる?」
クラスの男子たちだ。ほかのクラスの男子もいる。野球、サッカー。ひとりぐらい足りなくてもいいんじゃないかと思うのに、奇数になると必ず来る。男子は単純でバカだ。宿題やってないでしょ?
暗くなるまで遊んで帰ると、毎回母親に叱られた。
「あなた女の子なのよ。どうして女の子と遊ばないの。男の子の中にひとりだけ交じって恥ずかしい。○○ちゃん見習いなさい。いつもスカートはいて女の子らしくて。どうしてあんな風にできないの」
ふん!その○○ちゃんはね、逆上がりのやり方教えてくれるって約束したのに「今日はスカートだから、やだ」って帰っちゃったんだよ。いつだってそう。いない人の悪口言うし、いじわるだし。あんな子みたいになんか、なりたくない。
…
「いーから1回やってみな。どこがダメだか教えてやっから」
うるさいなー。もう。みんな、こっち見てるし。そんなこと言ったって…。
鉄棒を何度も握り直して、足の位置を整えて、1、2、1、2、右足、左足…なかなか踏みきれない。
「だいじょぶだってー」
「ほら、がんばれ」
みんなの視線に堪えられなくなって、右足で地面をおもいっきり蹴った。
が、人生、ドラマのようには上手くいかないことになっている。
「あーダメダメ。腕、伸ばしちゃダメ」
「もっと上に向かって蹴らないと」
「グッて力いれたままにするんだって」
みんなで一斉にしゃべんないでよ。地面蹴ったら頭下がるじゃん。上ってどっち?グッてどこに力いれんのさ。もう、ワケわかんない。もっとわかるように教えなさいよ。バカ。ホントに男子って単純でバカでおせっかいで優しい。そういえば、ただの人数合わせだったわたしに、いつもルールとか教えてくれてたね。
「いーか?も1回いくぞ」
「せーの!」
みんなの期待に答えて、もう一度地面を力いっぱい蹴った。と同時に何本もの腕が左右から伸びる。あちこちから支えられて、わたしの身体は鉄棒を一回転した。
「ほら、できたじゃん」
いやいや、なんの解決にもなってない。みんなが押してくれたからだし。それにお尻触んないでよね!まったく。ホントに男子って単純でバカでおせっかいで優しくて純粋でありがとう。
それから何日か、毎日残って練習した。だけど結局、テストの前日になっても逆上がりはできなかった。
50年も前の話だ。ここで終わっていたら、きっと忘れてしまっていただろう。今まで覚えていたのには訳がある。いつも決まって最終回に、なにかが起こることになっている。
テストの当日になった。順番に何人かずつ逆上がりをする。みんなは体育座りで真正面から見ている。わたしの番がきた。どうせできないんだから、やりたくない。でも頑張るよ。男子こっち見んな。
実は、ここから先はあまりよく覚えてない。方向やタイミングが、いつもと違ったのか。それとも何かの力が働いたのか。最初の1回で、なぜだか突然あっさりと、あれだけできなかった逆上がりができてしまった。今でも信じられないし、なんだったのかよくわからない。そして、そのあとの1分間、いくら頑張っても、もう二度とはできなかった。
「1回? 1回!?」
結果を報告すると聞き返された。定年まぢかのおじいちゃん先生だったが「1回は初めてだ」と言われた。ヘンな記録を作ってしまった。そうだよね。できない子は0回だし、できる子は何回でもできるんだから。
「逆上がりができますか?」と聞かれたら何て答えよう、と思ったことがある。できたのは生涯ただ1回。もう二度とできるはずもない。ただ「できない」と言ってしまうと、小学生のあの日々が、無かったことになってしまう気がした。
「あなたは逆上がりができますか?」
今、わたしが答えるなら「できる」と「できない」のあいだ。かな?今まで一度も聞かれたことなかったけどね。
そして、たまにあの時のことを思い出して、ひとり微笑んでしまう。それは、テストで逆上がりができた時ではない。何本もの腕が左右から伸びてきて、逆さまの景色が初めて回転した、あの時だ。
きっと、わたしの中の何かを変えてくれた、大切な瞬間だったのだと思う。