エロゲとお風呂屋と婚活と
「エロゲとお風呂屋(意味深)だけでいいじゃないか」と考えることがある。エロゲで深い精神的繋がりと物理的繋がりを疑似体験し、お風呂屋(意味深)でリアルの物理的繋がりを束の間買う。
その2つがあればある意味リアル女性との繋がりは要らない、とも言える。要らない、と言うより「コスパ」を考えるならば割に合わない、という感覚だろう。
それでいて、婚活という苦労の割に合わないどころか結果さえ誰も保証しない場に復帰しようとしているのはなぜか。
上記の「エロゲとお風呂屋だけでいい」のは、自分の自分だけの性欲を満たすためならばただしい。婚活をして得られる(かもしれない)ものは、伴侶という生活を共にするパートナーと、その人と子どもを作ってもよいという許可証だ。
伴侶も、その先に設けられるかもしれない子どもも、自分とは異なる他人だ。当然自分の思い通りにはならないし腹が立つこともあろう。
しかしそれでもなお「誰かと一緒に暮らしたい」という欲求はどこから来るのだろう。極言すれば、これも「自分の遺伝子を残したい」というDNAの乗り物たる自分の生物的欲求に過ぎないとも言えるかもしれない。自分という個が消え去ったあとに自分の遺伝子を継いだ存在が残っていてほしい、それだけのために必死で働き必死で婚活する。
「エロゲとお風呂屋だけでいい」と考えるのも「自分の遺伝子を残したい」と考えるのも自分の嘘偽りのない本心だ。
社会と自分を必死で擦り合わせて労働し、社会で生きていてもいい自分を目指していく。その果てに「生きていてもいい」と言い合えるパートナーと巡り会えることを祈って日々を送りたい。