友綱部屋の歴史 前編
令和4年1月27日、元関脇旭天鵬の11代友綱が元魁輝の先代友綱と名跡を交換し、6代大島を襲名。現在経営している友綱部屋を大島部屋と改称することが発表された。
そこで、今回からは一時看板を下ろすこととなる友綱部屋の歴史を2回に分けて振り返りつつ、今後の展望についても触れてみたい。
6代~7代期
開祖は6代友綱(元幕内・海山)。同郷の政治家・板垣退助の支援も受けて勢力を拡大し、大横綱太刀山・大関國見山を筆頭に多数の幕内力士を擁するなど一時代を築いた。往時の隆盛ぶりは、舟橋聖一の名随筆「相撲記」においても印象的に描き出されている。
しかし、引退した太刀山が東関を襲名して独立後、部屋は斜陽化。役員選挙のもつれで東関が協会を去ると、6代友綱も2年後、弟子の矢筈山を後継者に選んで廃業した(矢筈山は年寄二枚鑑札)。
6代廃業に前後して、矢筈山の兄弟子にあたる敷嶌の熊ヶ谷、土州山の二子山、黒瀬川の谷川が内弟子を引き連れ次々と独立したため、本家友綱はますます衰勢。7代弟子としては、寳川・天城山の幕内力士が出ただけに終わった。
結局、7代は昭和21年に部屋を閉鎖。6代友綱(海山)を開祖とする友綱部屋の系譜はここで一度途絶えることとなる。
8代期
ところで、7代には後継者と目される存在がいた。
現役中に7代の養女(にした姪)と結婚して、高嶋部屋から友綱部屋へと移籍していた「弾丸」巴潟その人である。
矢筈山の7代が昭和21年に部屋を閉鎖したとき、後に8代友綱を襲名する巴潟はすでに引退、まず玉垣部屋を興した後(昭和16年)、名跡を変更して安治川部屋を経営していた。ゆえに、7代がこの部屋へと合流し、名跡交換するなりの形を採っていれば6代からの系譜はスンナリ繋がっていたのだが、なぜか7代の移籍先は立浪部屋。
「明日の相撲部屋 友綱部屋」(『相撲』昭和48年12月号)によれば、巴潟の現役時、部屋の経営について7代と衝突した経緯もあるようだが、詳しいことは分からない。
ともあれ、そうこうしている内、安治川は8代高嶋(八甲山)の死去に伴い、自身の古巣である高嶋部屋を継ぐことになる(昭和26年)。すなわち、友綱部屋の母体はなんら受け継ぐことなく、高嶋の遺弟子を軒並み受け入れたという事実だけに着目すれば、系譜としては完全に高嶋部屋のそれと重なり合うことになるのだ。
まして、9代高嶋(巴潟)は8代の遺した吉葉山・三根山を横綱・大関へ引き上げる手腕を発揮したものだから、なおさら「高嶋親方」としての声価は高まることになった。
高嶋継承からおよそ10年後の36年1月、創設された停年制度に伴い、7代友綱が立浪部屋付きのまま協会を去ると、9代高嶋は8代友綱を襲名して15年ぶりに名門部屋の看板が復活。一方、高嶋部屋は引退後熊ヶ谷部屋を興していた三根山が受け継ぐこととなるのだが、幕内・芳野嶺ら8代(八甲山)以来の弟子は新友綱部屋へと移籍しており、やはり高嶋部屋の系譜も(現在に続く)新友綱部屋に引き継がれているとみなすのが妥当だろう。
とはいえ、巴潟の友綱継承が6代~7代の流れを汲む友綱部屋の再興にあたらないかといえば、それは形式主義に過ぎるというもの。
7代友綱と姻戚関係で結ばれた8代は友綱の地位を相続する正統性を持っており、まして現役中に友綱部屋へ移籍もしている。ならば、系譜は高嶋でありつつ、友綱部屋としての再興をも妨げないという曖昧な両立は認められるのではないかというのが筆者の私見である。
ずっと後になって魁皇が初優勝を果たした時、主要メディアは「友綱部屋として、太刀山以来84年ぶりの幕内最高優勝」と書き(一例として『相撲』平成12年6月号65頁)、6代~7代期との連続性を認めている。
これが単なる無知ないし誤認に基づく判断と一線を画していることは、言うまでもないだろう。
以上、やや蛇足ではあったが、今回の11代による大島部屋「再興」にも関わる重要な論点ゆえ、8代期については長めに書かせていただいた。
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