十両在位1場所力士列伝 大石田謙治編(中)
大石田と同じ昭和52年春場所初土俵組はなかなかの豊作。まずは56年初場所、騏ノ嵐がダントツの早さで十両昇進を果たすと、その後も輪鵬(花籠→放駒・最高位十両11・58年夏)、港龍(58年秋)、前乃臻(59年初)、天凰山(春日山・最高位十両13・59年秋)、卓越山(高田川・最高位十両5・60年名古屋)、恵那櫻(61年春)、佐賀昇(61年秋)と立て続けに関取が誕生した。
そして、昭和62年。彼らの後を追うべく、大石田にも大きなチャンスが訪れる。
地味ながら着実に・・・
昭和58年初場所、2度目の幕下昇進となった場所で5勝2敗と勝ち越した大石田は、これ以降完全に幕下定着を果たす・・・のだが、この時期の動向は専門誌にも殆ど記されておらず、書けることは多くない。
それでも、定着成功の58年、初めて15枚目以内進出を果たした59年と着実にステップアップしていたことは事実。
60年初場所は東48枚目で6勝1敗、8人による優勝決定戦に進出し、さすがに何か載っているだろうと期待したのだが、運悪く(?)同部屋から大乃花、榛名富士が返り十両を決めたタイミングということで選外に。
年男となるこの年、番付の上でも大きな成果を挙げたいところだったが、15枚目以内へ再進出を果たすのが精一杯に終わってしまった。
そんな経緯もあってか、61年には1月早々四股名を大美鶴と改名。夏場所までの3場所中2場所を勝ち越し、ゲンも悪くなかったのに、名古屋で早々と大石田に戻した理由は判然としないが、ともあれ、第一次ブレイクはこの場所から幕を開けることとなる。
西31枚目で6勝1敗の成績を残し、専門誌(『相撲』昭和61年7月号)にも久々に取り上げられた大石田の取り口を引用しておこう。
教習所の指導員をしている大美鶴も大石田に戻っての心機一転が吉と出ての大勝ち。
2日目若薩摩(井筒)に右上手を取り左差し手から起こして寄り切り、日高山(宮城野)にも左四つ右上手の型にはめて寄り切り。5日目、左肘の手術跡が回復してきた元幕内の寶國には両差しとなって突っ走った。
7日目清乃洋(伊勢ヶ濱)との給金相撲は頭四つの格好から左差しを許し、逆に自分の左を絞られて寄り切られて1敗。10日目若筑波(高砂)とは突きまくって裏正面に落とし、12日目高津山(大鳴戸)のお株を奪う強烈な右ノド輪で押し出し、最後は奄美富士(高砂)を押し込んだあと、正面へ引き落とした。
教習所の指導員ではバリバリのヤングとあって怪物生徒だった琴天山(廃業)の相手をさせられていた成果が出た?
新十両へ一歩及ばず
61年秋場所、自己最高位・東13枚目大石田は、幕内上位経験者の天ノ山(時津風)に勝つなど1勝3敗から盛り返し、15枚目以内で初の勝ち越し。西8枚目の翌九州でも9日目に勝ち越して5勝をあげ、62年初場所は十両目前の東3枚目。いよいよ十両を視界に捉える位置にまで躍進してきた。
体つきを見ても、昭和58~59年頃の120キロ台後半から、60年後半に130キロ台半ば、さらにこの時期には140キロ台前半まで増えており(いずれも『相撲』展望号付録もしくは末尾掲載の星取表参照)、すっかり軽量という部類ではなくなっていた様子が窺える。
取り口の上でも、得意の突き押しに加え、左四つの強みが増したようで、キャリア相応に相撲の幅を広げつつあった。
勝負の初場所、大石田は前半戦を白星先行で折り返す。とりわけ7日目、初の大銀杏で元関脇・鳳凰(二所ノ関)を寄り切ったときは、部屋も沸き立ったのではないかと想像するが、ここでスンナリ上がっていれば、恐らくこの記事は成り立っていない。
翌日、場所中盤に2日連続で十両戦という殺生な割が組まれ、台湾出身の栃ノ華(春日野)はに掬い投げを喰うと、11日目琴富士(佐渡ヶ嶽)、千秋楽維新力(大鳴戸)と連敗し、初めての上位挑戦場所は無念の負け越しに終わった。
続く春場所で5勝をあげ、夏場所すぐに西3枚目へ戻るも、3勝2敗で迎えた11日目、またも立ちはだかったのは栃ノ華。おまけにこの一番で右膝を痛めて、最後の相撲を休場。勝っても昇進は難しい情勢だったとはいえ、十両力士への挑戦権を得ることもできぬまま、2度目の上位場所は終わりを告げた。
試練の平成元年を経て・・・
その後、だいぶ怪我も癒えた63年には回復基調に入り、15枚目以内を外れれば6勝(春・秋)の大勝ちで地力の高さをアピールしていたが、一桁に入るとあと1勝が遠く、上位定着を果たしきれない。
「幕下上位の力を持っているんだから、あの辺ならそれくらい当たり前。問題は、上位に戻ったチャンスに素直になれるかどうかだ。もう人から言われる年齢でもないから、みんなうるさいことは言わない。自分自身の気持ち一つ」とは嗣子鵬若者頭。そろそろ正念場に差しかかっている。
(『相撲』昭和63年11月号)
しかし、27歳になった大石田にとって、来る平成最初の1年間は厳しいものだった。以下、『相撲』平成2年2月号より本人の回顧をもとに振り返る。
去年の大阪場所の千秋楽の給金相撲で龍授山(高砂・のち十両)とやって左足の靭帯を捻挫して、それが公傷と認められなくて、五月場所は1勝しかできなかった。夏のキャンプから帰ったら、体がダルい。夏バテかなと思って診てもらったら内臓が悪かった。肝臓ですね。その検査が終わってから、体重がジャンジャン落ち出して、158キロあったのが、九州から帰ってきたときには123キロまでやせていた。
怪我をした直後の夏場所からは、大阪の高僧につけてもらった太遊を名乗り験直しを図るも、1勝2回、2勝1回と惨憺たる結果に。
元年九州の負け越しにより、2年初場所はとうとう三段目陥落。これは昭和57年九州以来、実に8年ぶりのことだった。
(力士を)やめたかったですね。でも三段目へ落ちてやめたんじゃ中途半端に終わっちゃう。もう一回十両へ挑戦してからと思い直して」
太遊は決意の表れとして、四股名の返上を直訴する。慣れ親しんだ大石田に復する胸中を、61年名古屋からの第一次ブレーク期が去来していただろうか。
それは分からないが、実際、今度の大石田改名も前回に並び、上回るほどのインパクトを残すことになる。
三段目陥落と決意の改名。2つのピースを揃え、平成2年の快進撃が始まろうとしていた。
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