十両在位1場所力士列伝 大石田謙治編(下)

大石田が所属した大鵬部屋の状況にも目を向けると、(上)の記事でも述べた通り、入門直後の52年夏場所、大真満山が創設以降初の関取となって以降、昇進順に頂ノ郷翔鵬綾の海榛名富士草竹大乃花大鷹大竜大若松と9人が関取の座を掴んでいた。
大半が最高位十両で終わり、それこそ「在位1場所」の力士も4人いるのだが、これほどコンスタントに関取を出せるというだけでも立派なことではないかと思う。
ともあれ、そうして10人の兄弟子と1人の弟弟子(大若松)が新十両を果たす姿を見てきた大石田にも、とうとう「12人目」となるチャンスが巡ってきた。

進撃のとき

平成2年初場所、およそ8年ぶりの三段目で大石田は7戦全勝。キャリア14年目にして初めて各段優勝の栄誉を勝ち取った。

優勝を決めた13日目の智乃海(高田川)戦は、立ち合いから左四つ、右上手を取るまで手間取ったが、つかんでしまえば負けるわけがなく、じっくりと東土俵に寄り倒した。
(『相撲』平成2年2月号)

一気に東13枚目まで上昇した翌春場所、1年ぶりの幕下上位でも4勝3敗と勝ち越し。
ちなみに、給金を直した14日目の福ノ里(立田川)は、9年半前(55年秋)に三段目で7戦全勝を逃したときの相手(当時福田)。大石田からすれば、初土俵こそ違うものの学年は同じ、しかも向こうは前年の秋に一足早く十両昇進を果たしているということもあり、意識するところがあったかもしれない。

やや番付運良く西7枚目で迎えた夏場所も好調維持し、5勝2敗。
かつて、大美鶴から大石田へ改名した際も、6勝→4勝→5勝の所要3場所で幕下3枚目まで上がったが、今回も改名から3場所(7勝→4勝→5勝)で5枚目以内へ、それも3枚半上の龍ヶ浜(時津風)や3枚上の熊翁(高砂)の4勝を追い越して東筆頭まで上がることができたのは大きかった。

なんだかんだで幕下上位は番付運が命。「力があればいつか上がれるんだから」というのは正論だが、誰もがその力を持てるわけではない。小さな可能性の糸を手繰り寄せながら、限りあるチャンスにすべてを懸ける力士もいるのだ。当時の感覚ではベテランと呼ばれる28歳9ヶ月にして、勝負の場所に挑む大石田もその一人であった。

14年目で迎えた春

勝負の名古屋場所、大石田は返り十両の琴白山(佐渡ヶ嶽)を叩き込み。2日目から6連勝、最終的に11勝もした相手を下して好スタートを切ると、6日目には2度目の十両戦でも芳昇(熊ヶ谷)を寄り切り、初めて5枚目以内挑戦した62年初場所同様、早々と勝ち越しに王手をかけた。
2日空いての9日目、対戦相手は西4枚目の大岳(時津風)。のちに十両を掴む力士ではあるが、この年は、初場所西5枚目の5勝で西筆頭に留まり、春場所は4勝3敗で昇進見送り、東に回った夏は1点の負け越しと不運に泣かされてきた。
念願の新十両に向け、両者負けられない一戦!
・・・ということで、盛り上げたい気持ちは山々なれど、残念ながら資料がない(苦笑)
次からは最大の見せ場たる一番の相撲内容くらい判っている力士を選ばなければ・・・と反省しつつ、せめても臨場感を味わってもらうために『相撲』平成2年9月号から引用する。

名古屋場所9日目、大岳(時津風)を寄り切って悲願の十両入りを確定づけたときは「ホントは笑顔じゃなきゃいけないのに、泣けてきたなぁ」としみじみ。

大石田は残り2番に敗れたものの東筆頭での勝ち越しは強く、場所後の番付編成会議において正式に十両昇進が決定した。
初土俵から所要81場所は、貴ノ嶺(井筒)の84場所、常の山(出羽海・先代出羽海[鷲羽山]の実兄)の82場所に続く、史上3位(当時)のスロー記録。出世頭の前乃臻(晩年は前乃森)や幕内経験のある港龍ら、関取経験を有する同期生8人のうち、すでに半数は引退済も、山響として協会に残っていた前乃臻を含め、幕内・恵那櫻、十両・騏乃嵐佐賀昇の4人から開け荷が送られたとのこと(『相撲』平成2年10月号)。
『相撲』誌には、それ以前から同期生との仲の良さがたびたび記されており、彼らにとっても、大石田が遅咲きの春を実らせたことは大きな喜びであったにちがいない。

昇進後の大石田

夢にまで見た十両の地位。青字に闘牛の化粧廻しとナス紺の締め込み、付け人に勇鵬鵬翼を従えて初日の土俵に向かった大石田は、時津洋(時津風)との新十両対決を制して幸先の良いスタート。
しかし、ここからあまりにも長いトンネルにはまり込んでしまう。
13連敗・・・千秋楽同期生の佐賀昇に勝ち、なんとか両目を開けて場所を締めくくったものの、苦労して掴んだ関取としての15日間は、家賃の高さを痛感させるものに終わってしまった。

十両昇進まで八十一場所を要し、史上三位のスロー出世を果たした大石田(大鵬)だったが、必死の相撲も力不足だった。
立ち合いが平凡で、得意の突き押しも先手が取れずに前に落ちるシーンも何度か見られた。ここでくじけずに再十両を目指してほしいものだ。
(『大相撲』平成2年10月号)

もっとも、本人のコメントや表情にあまり暗さはなかったようで・・・

「遅かっただけに、余計にうれしいですよ。十五番相撲を取るのも楽しい」と負けても笑顔をのぞかせていた。
(『大相撲』平成2年10月号)

とのこと。「また戻ってくるように頑張ります」との言葉にも、この時点では強さも現実味もあったろう。

だが、結果として大石田に再び上昇の日が訪れることはなかった。
西13枚目まで落とされた翌場所を負け越すと、この後15枚目以内に在位できたのは1場所だけ。平成4年頃からは幕下下位、5年頃からは三段目へと後退し、5年名古屋では序二段が見える位置にまで・・・
流石にここでは負けず、三段目中位復帰の翌秋場所も勝ち越したが、地力の衰えは隠しようもなく、ついにこの場所限りでの引退に踏み切った。
最後の1年ほどで体重が20キロ以上落ちて110キロ台となっているのは、現在でも見られる引退後を見据えた体重減なのか、それとも内臓の調子がまた悪くなったのか、これといった記載はなく確認することができず。
ともあれ、悲願の新十両からちょうど3年、31歳12ヶ月での決断はやむを得ないところで、本人としても、十分に取りきったという実感があったろう。

元十両の大石田が、今場所を限りに土俵を去ることになった。
新十両は、平成2年秋場所。初土俵から82場所(筆者註:正しくは81場所)という史上3位のスロー出世で”遅咲きの花”を咲かせながら、1場所でその座を明け渡し、復帰を目指したが果たせないまま、三段目中位にまで陥落してしていた。
「1場所でも十両に上がれたオレは幸せ者です。これで最後だから悔いのない相撲を取りたい」
と話していた今場所、31歳という年齢を感じさせない若々しい相撲で勝ち越し、有終の美を飾った。
(『相撲』平成5年10月号)

「1場所でも十両に上がれたオレは幸せ者」とは、まさに当連載のコンセプトを王道で貫く名文句であり、下調べをする中、第1回の主役にこの人を選ぶ決め手にもなった・・・というのはちょっとした裏話でした。

もっとも、「十両在位1場所」力士の中には、彼のような典型例ばかりではなく、様々なケースがあるのも確か。
今後も、そうしたバリエーションの中から何人かの力士を選び出し、その土俵人生を追体験できるような記事を書いていければと思っています。

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