友綱部屋の歴史 後編
令和4年1月27日、元関脇旭天鵬の11代友綱が元魁輝の先代友綱と名跡を交換し、6代大島を襲名。現在経営している友綱部屋を大島部屋と改称することが発表された。
今回は後編。9代~11代期の沿革を述べながら、結びとして今後の展望についても触れてみたい。
9代期
昭和51年3月をもって8代(巴潟)は停年退職。8代の義弟(8代夫人の妹と結婚)で2代安治川を名乗っていた元十両・一錦が9代友綱を襲名し、後継を担うこととなった。
9代は先代弟子の魁輝を関脇に昇進させたほか、同じく先代弟子の王湖を幕内へ押し上げるなどの実績を上げ、太刀光(大刀光)も自身の停年退職後に幕内昇進。また、停年が間近に迫った昭和63年には、のちの名大関魁皇(当時は古賀)、アメリカ本土出身力士として初の関取となった戦闘竜が相次いで入門し、来たるべき10代期の繁栄に向けた礎が築かれている。
ちなみに、9代自身は8代同様、高嶋部屋の出身だが、弟子には国見山、太刀光など友綱部屋ゆかりの四股名を受け継がせている。この点からも自部屋を高嶋部屋の系譜ではなく、あくまで6代~7代の流れを汲む「友綱系」として位置づけていることが分かるだろう。
10代期
8代弟子として入門し、9代の娘婿になったのが関脇・魁輝である。
平成元年5月、9代が停年退職したことに伴い、12代高嶋から名跡変更して10代友綱を襲名。
幕内に昇進させた先代弟子・太刀光と入れ替わるようにして番付を上げたのがのちの名大関魁皇であり、10代期の歩みは殆どこの大力士とともにあったと言っても過言ではないだろう。
10代は、これ以外にも関脇・魁聖、上述の幕内・戦闘竜、十両・魁道を育てたほか、相撲協会理事としても計4期を務め上げ、審判部長などを歴任した。
平成24年4月には、師匠の停年退職によって閉鎖される大島部屋から所属力士・裏方らを受け入れ。直後の夏場所で移籍してきた旭天鵬が歴史的な幕内優勝を遂げたことも個人的にはまだまだ記憶に新しいのだが、気付けば10年近い年月が過ぎてしまった。
11代期
友綱部屋に移籍した旭天鵬は平成27年名古屋の現役引退後に4代大島を襲名。29年6月には10代友綱の停年退職に伴う名跡交換で11代友綱を名乗り、友綱部屋を継承する運びとなった。
その後、11代は先代弟子の魁聖に加え、大島部屋時代の弟弟子にあたる旭日松、旭秀鵬、旭大星らを擁し、堅実な部屋運営を行っていたが、令和4年初場所後、5代大島となっていた先代友綱(魁輝)と再度名跡交換を行い、6代大島として古巣の大島部屋を再興する旨が発表された。
これは、かつて巴潟の9代高嶋が岳父である7代友綱の停年に伴い8代目を襲名、弟子はそのままに部屋の名前だけを改称して新友綱部屋を興した経緯ときわめてよく似ており、当時とは対照的な形で友綱部屋の名称が消滅することとなるのは、運命のいたずらと言えようか。
6年ぶりで友綱に復した12代は今年6月に70歳を迎え、再雇用期間を終える。
今後の展望
消滅が決まった友綱部屋だが、再興の余地は残されている。
というのも、今回の11代による大島襲名は、魁聖がちょうど相撲部屋を新設可能となる幕内60場所在位に達したタイミングで行われたのである。
もちろん、現時点で推測をベースに多くを論ずべき事柄ではないが、少なくとも将来的に現役を退いた後の魁聖が、新大島部屋から兄弟弟子を伴う形で独立し、友綱部屋を再興する資格を得たのは事実。
なんと言っても、7代閉鎖後から8代による再興までには15年ものブランクがあった。名門友綱部屋が再びその伝統に明かりを灯す日まで、今度も気長に時機の訪れを待ちたいものである。
前後編通じての参考文献(文中において既に指し示したものは除く)
小池謙一 年寄名跡の代々 友綱代々の巻 「相撲」平成4年8月号
小池謙一 年寄名跡の代々 高島代々の巻 「相撲」平成3年2月号
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