矛盾

今日使わせてもらう写真は美しい桜の花。今年の春は気が付いたら終わってしまった。お花見などのイベントもできなくて残念に思う人もいるだろう。僕は散歩ルートに桜が見れるところがあって、むしろ例年よりも桜をじっくり楽しめた気がする。来年はゆったりと桜をめでることができる春になってほしいものだ。撮ってくれた人に感謝。

さて、昨日の段階で課題がほとんど終わっていたので、今日の朝には無事勝利宣言をすることができた。やはり週末くらいは自由に時間を使いたいものである。だが、本来の今日の目標が、「課題の終了」だったので、それを達成したことによる「やり切った感」を感じて、それ以上の意欲が起きない。さらに、クーラーをつけると冷え過ぎる、つけないと暑い、窓を開けても意味がない、そんな絶妙な暑さが無気力感に拍車をかける。せっかくできた自由な時間だ。何かしなければ......。

ここで、頭の中に疑問が浮かんだ。なぜ、「何かをしなければいけない」と思ったのだろうか。何かをやるもやらぬも自由なのだから、意図的にやらないことを選択してもいいはずだ。学生時代の休日はたいてい家でゴロゴロしていたのだが、一人暮らしになってから、やるべきこともやりたいことも増えて、そのような時間が無駄だと感じるようになっていた。

もちろんこのマインドを否定する気はさらさらない。むしろ、高校生までの僕にはやりたいことがわからなくて悩んでいたくらいなので、喜ばしいことだ。しかし、完全に無駄として切り捨ててしまったら、僕はずっと行動し続けなくてはならないわけで、余裕が失われてしまう気がする。

ここまで考えたところで、高校時代の僕と今の僕の考え方が、まったくの逆になっているということに気づいて、驚いた。高校生の時、自分の積極性のなさが嫌いで、変わりたいと思っていたが本質なので変えられないと思っていた。だが、今は手に入れられないと思っていた考え方を気づかないうちに持っていて、それが当たり前になりつつあることを認識した。案外、人間の考え方なんてあっさり変わるものなのかもしれない。

それと同時に、今の僕は昔の僕が嫌っていた部分を羨ましく感じていることにも気づかされた。なんという矛盾。「今の僕」が「昔の僕」をうらやんでいる。まるで別の人のことを羨ましがるように。人間は、その時の自分が持っていないものを欲しがるものなのかもしれない。なんだか、一貫性とか、信念とか、ブレない自分とかいう言葉の重みが減ってしまったような気がして、少し寂しいような気がした。

そんなことを考えていたら、もう30分もたっていた。はたから見たら、僕は机の前にただ座ってぼーっとしていただけに見えるはずだ。まさに無駄な時間を過ごしているように見えたことだろう。だが、僕はこの時間を無駄だとは思っていない。もしかしたら、クラスでぼーっとしていた人もその人だけの有意義な時間を過ごしていたのかもしれないと思えてきて、少し笑えてきた。

いつの間にか「やり切った感」はどこかへなくなって、気力が復活していた。何がきっかけになるかわからないものだ。午後は少し長めに読書の時間をとろうとおもった。




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