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9月の聖書タイム「聖霊の風に乗って」

by 山形優子フットマン

山形優子フットマンの執筆・翻訳 by 「いのちのことば社
新刊「季節を彩るこころの食卓 ― 英国伝統の家庭料理レシピ
翻訳本:
マイケル・チャン勝利の秘訣」マイク・ヨーキー著
コロナウィルス禍の世界で、神はどこにいるのか」ジョン・C・レノックス著
とっても うれしいイースター」T・ソーンボロー原作
おこりんぼうのヨナ」T・ソーンボロー原作

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」ーーー詩篇23:1

みなさんの夏休みはいかがでしたか? 私は湘南の海辺で1ヶ月半、まるで海を浮遊するクラゲのように、何も考えずにぼうっと暮らしました。夕方、浜辺に出て砂の中に足を埋めて温めたり、白波に打たれながら沖に向かって泳いだり、沈む夕陽に映えて輝く海を眺めたり、時には江ノ島の花火に打ち興じたり。思考停止、ゼロ。そんな時、冒頭の聖句「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」を実感し満ち足りた気分となります。

孫たちと一緒に江ノ島の水族館で、クラゲをたくさん見ました。色とりどりで、ふかふかと泳ぐ姿は全く自然体。ストレスにまみれて都会から来た人たちも、こんな間抜けで力まない様子を見たら、なんとなく「のれんに腕押し」、あくせくした暮らしがバカバカしくなるはずです。何を着て、何を食べ、どんな家に住み、給料がどれぐらいで、どこまで出世し、果ては子供の学歴、就職先、等々。クラゲには無関係なことばかり。人間様の営みをクラゲと比べるのは馬鹿げているかもしれません。でも聖書には次のようにあります。

神は人間をまっすぐに造られたが人間は複雑な考え方をしたがる。」ーーーコヘレトの言葉7:29

この聖句のように私たちが、真っ直ぐ素直なら、「生きる」のは案外容易かもしれません。どんな状況も受け入れ、どんな時も感謝できそう。でも、残念ながら人間は自分の頭の中で色々と考え、他人と比べたり、世の中の規定や金銭価値に自分を照らし合わせ、世の基準に自分を近づかせようとします。加えて、上昇志向に叶う自分は上々で、そこから逸脱する人たちを見下したりです。複雑な人こそ常に「不足」を感じ「足りる」ことを知りません。

数年前、敗血症を煩い短期入院しました。その際、末期に近い癌で何週間も食事をとっておらず、緊急入院してきた女性と同室に。彼女は、そんな状態でも私を見るなり「どこに住んでいるの?ウィンブルドンのどの辺で、どんな家?」と執拗にきいてきました。適当に返事をしましたが、ききもしないのに彼女は次のように言いました。「私は屋敷が並ぶ●●通りに住んでいるのよ。大きな素晴らしい家で、親戚とは隣接していて庭続きなの。救急車が私を迎えに来た時、救急隊員たちが『なんて素敵な家!』と言って感嘆の声をあげたの」と。

彼女の言葉、あなたはどう思われますか?正直言って、私は心から驚きました。命が消えるかも知れないのに、お家自慢とは!お気の毒と言えばそうでしょう。どんなに素晴らしい屋敷に住んでいても、どんな見事な宝石を持っていても、高価なブランド服を着て自信たっぷりに振る舞っても、人間は死の前には無一文、無抵抗です。人は墓場に持っていけないもので自分の不足を補うのでしょうか。

そこへ行くとクラゲは本当にお気楽そのもの。赤いクラゲは白クラゲを見て、白の方が素敵だから、白くなりたいとは思いません。あるがままで、ふわふわと存在するだけ。でも、このクラゲ、実は潮が無いと、底に沈んで溜まってしまいます。クラゲがクラゲらしく振る舞うには、潮流が必要です。潮流さえあれば、クラゲにとっては、ほぼ「何も欠けることがない」のです。

さて、私たちが本来の気質、真っ直ぐになるには、どうしたら良いのでしょうか?本当の自分は「これだ」と、頭の中で構築しても無駄です。「自分らしさ」を知りたいと考えること自体、複雑かもしれません。自分らしさは自分で決めれませんが、生まれつきの「自分」が誰かを探り、受け入れ、友達になることはできそう。ちょうどクラゲに潮流が必要なように、実は本来の自分になるために必要なのは「聖霊の風」です。

「聖霊の風」ってなんでしょう?キリストは次のように語ります。「『あなた方は新たに生まれなければならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は想いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くか知らない。霊から生まれた者も皆その通りである。」ーーーヨハネによる福音書3:7-8

どうやら霊的に新しく生まれなければならないようです。荒唐無稽、難しそうです。「あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くか知らない。」と言われても、ますますわかりにくいだけこの世の営みから離脱して行き先がわからない腑抜けクラゲ人間になれと言うのでしょうか?

クラゲになった自分を想像してみてください。肩の力を抜き、ゼロになって、聖霊の風に聞き耳をたててみましょう。聖霊の風を待ちましょう。祈りと共に待ちましょう。「新たに生まれ変わらなければなりません」とは、キリストを待ち、自分をキリストに開け渡すことではないでしょうか。新たに生まれ変わるのは、全て余計なものを削いだ生まれながらの自分、本来、造られた自分にたちかえることかもしれません。もしかしたら赤ん坊のように弱く、貧しく、力ない自分に出会うことになるかも。罪深い自分を見つめる事になるかも。そんな自分でも実はキリストが生まれる瞬間に抱き取ってくださいますから、ありのままの自分でも「何も足りないものはない」のです。大きな屋敷に住まなくても、高価な服を着なくても、贅沢なものを食べなくても、そのままの自分で豊かに、イキイキと生きることができます。

聖書には次のようにあります。

自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」ーーーマタイによる福音書6:25

また「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」ーーーマタイによる福音書6:33 ともあります。

湘南はサーフィンのメッカです。クラゲが潮流に乗って見事な舞を見せるように、私たちも聖霊の風が起こす波に乗って、どこまでも行こうではありませんか。聖霊の波に乗れないことも多々あるでしょう。でも、諦めずに祈りつつ次の波を待てば、いつか聖霊サーファーに成長していき、自分らしい波乗りができます。キリストはサーフボードに乗るあなたを支え、あなたの足を堅く立たせてくださいます。もう複雑なことを考えなくても風と波と一体、つまり聖霊と一体になるだけで良いのです。キラキラと目眩く輝く真夏の波と風が、あなたを滑らかに運んでくれます。

「静まって私こそ主であることを知れ」ーーー詩篇46:10

最後に箴言1:7をみましょう。
「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。」