聖書タイム2021年7月:「戸を叩く音が聞こえますか?」
by 山形優子フットマン
「いのちのことば社」翻訳本:
「マイケル・チャン勝利の秘訣」マイク・ヨーキー著
「コロナウィルス禍の世界で、神はどこにいるのか」ジョン・C・レノックス著
見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。
だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、
わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。
―― 新約聖書ヨハネの黙示録3章20~22節
この聖書箇所を読んで、あなたはどんな光景を想像しますか?「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている」とありますが、「わたし」とはイエス・キリストのことです。つまり、「御覧なさい、わたしイエスは、あなたの心の戸口の外に立って、その戸をたたいています」ということです。次に「だれかわたしの声を聞いて」とありますから、キリストは戸をドンドンと叩くだけではなく、声も発しているのです。「ごめんください」とか「入れてくださいますか」、あるいは、あなたの名を呼んでいるのかもしれません。次に「だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば」とありますから、中には声が聞こえない人もいるし、声を聞いても戸を開けない人もいるのでしょう。
最後は「わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」と書かれています。「戸を開けてキリストを迎え入れたら、食事を出さなければならないの?」と敬遠する人もいるかもしれません。でも、キリストはあなたの家の食卓にいつも客人として、「ただ飯」を食べるような方ではありません。あなたに負担をかけるどころか、「彼もまた(彼女も)、わたしと共に食事をするであろう」とありますから、キリストが振る舞う食事に、あなたも預かるのです。キリストはエプロンをかけて腕をふるってくださるのです。それは、日々の食べ物と、魂の食べ物との両方です。あなたの名を呼び、戸を叩くキリストを中に迎え入れたなら、あなたの心の中にキリストは宿り、いつもあなたと一緒、あなたを守り、あなたを優しく導いてくださいます。
神の独り子キリストが人の形をとって地にくだり、人と共に暮らしたのは、神と人とが仲良く同居するためと言ってよいかと思います。ヨハネによる福音書には次のように書かれています。
言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵と真理に満ちていた。
ーー ヨハネによる福音書1章14節
ここで言う言葉とは、神の口から発した言葉(ロゴス)で、簡単に言えば「聖書の言葉」と解釈してもよいかと思います。聖書の言葉は、人の心の中に宿り、魂の血となり肉となります。それはまた、聖書の言葉がキリストご自身であると示唆しているのです。そのキリストを通し、わたしたちは、天の父である神の栄光を見ることができるのです。
その栄光は「恵と真理に満ちていた」とあります。日本には恵子ちゃん、あるいは恵(めぐみ)ちゃんというように、恵の字を使った名前が多いように、恵という言葉は割合と馴染みがあります。では、真理はどうでしょうか? 現代人だったら、「真理は人それぞれ」あるいは「真理はたくさんある」と答えるのが一般的と思います。けれども、あえてわたしは「真理はひとつ」と言います。なぜなら、真の理はひとつだからこそ真理なのではないでしょうか?
キリストを心に迎え入れ、その方と魂の糧を共にわかちあうことこそ、真理の道への第一歩と思えてなりません。人は本来ならば生まれつき真理の道を尋ね求める習性があるのではないでしょうか? 旧約聖書のコヘレトの言葉3章11節には「神はすべてを時宜(とき)にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる」とあります。もし、この世の価値や仕事の忙しさに追われ、その習性を追求する余裕がないとしたら、真理こそがその人の心の戸口に立って、声を出して「わたしはここにいる」と叫ぶのではないでしょうか? もう、みなさんはおわかりですね。真理はキリストに重なります。恵と真理に満ちた輝かしい光の方を、あなたの心の中に迎えいれるなら、あなたの心は解放され、自由な光に照らされるのです。
「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」
―― ヨハネによる福音書8章32節