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2022年6月の聖書タイム「白い衣を着ましょう」

by 山形優子フットマン

山形優子フットマンの執筆・翻訳 by 「いのちのことば社
新刊「季節を彩るこころの食卓 ― 英国伝統の家庭料理レシピ
翻訳本:
マイケル・チャン勝利の秘訣」マイク・ヨーキー著
コロナウィルス禍の世界で、神はどこにいるのか」ジョン・C・レノックス著
「とっても うれしいイースター」T・ソーンボロー原作
「おこりんぼうのヨナ」T・ソーンボロー原作

「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられるのである」
ーー ヨハネの黙示録3:5

この時期、野を行くと白いカウパセリの花々が咲き乱れています。まるで6月という季節が草花に白い衣の装いを施したかのようです。冒頭の聖句をはじめ、聖書の中には「白い衣」が何度も登場します。結論から言うと、白い衣は神の衣で、それを着たいと心から願ったなら、誰でも着ることができます。それはまた、平安の衣です。

私たち人間はもともと清い存在ではありません。でも、自分では気付かないかもしれませんが、人は「汚れたら、きれいになりたい」、「病があれば癒やされたい」、「心に傷があれば癒やされたい」と願っています。つまり、汚れ、身体的、精神的問題や打撃等々、自分をがんじがらめに縛る負の思いから解放されたいと切に願っているはず。「癒やされたい」一心で、藁をも掴む思いにかられてキリストの衣に触れたいと願った一人の女性の話が聖書に

「すると、十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。『この方の服に触れさえすれば治してもらえる』と思ったからである。イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。『娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。』そのとき、彼女は治った」
ーー マタイによる福音書9:20~22

当時女性の長血は「汚れ」とされていましたから、人々は彼女を避けました。病に苦しむだけでなく、彼女は12年間、村八分も同然、孤独だったことでしょう。イエス・キリストに触れたら、治ると彼女は望みをかけましたが、汚れた存在と自覚していたので、辛い思いをおして、俯き加減に後ろから清い神の子の衣の、しかも房に触ろうと思ったのでした。彼女が、そっと房に触れた時、キリストは彼女のために振り向き、彼女と向き合いました。12年間も女を縛っていた苦しみが消え、喜びに変わりました。彼女の名前は聖書に記録されていません。

一方、聖書にはキリストに後ろから声をかけられ、振り向いた女性も。その女(ひと)の名はマグダラのマリア、キリストが十字架にかけられ、葬られ、復活した後、初めて「復活のキリスト」に出会った人でした。

「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして墓から石が取りのけてあるのを見た。ーー中略ーーマリアは墓の外に立って泣いていた。ーー中略ーー後ろを振りむくとイエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。『婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。マリアは園丁だと思って言った。『あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。』イエスが『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で『ラボニ』と言った。『先生』という意味である」
ーー ヨハネによる福音書20:1~16

当時マリアという名前は一般的だったので出身地で区別していたようです。マグダラはガリラヤ湖畔にある風光明媚な村で、ローマ兵たちが休暇を取る場所でもありましたから、当地の風俗は推してしるべしです。彼女は他の女性たちと一緒に、弟子たちの身の回りの世話をしていました。マグダラのマリアという女性について聖書は多くは語っていませんが、ルカによる福音書8:2にある「7つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」が、最も詳しい描写です。

彼女は墓(死)に行ってキリストの遺体が無いことを嘆きました。キリストに自分の名前を呼ばれ、振り向いた時、涙は一瞬のうちに乾き、喜びに。キリストは「命」から「命」へとつなげてくださる方。彼女は全く、トンチンカンな方向を向いて、恩師の、しかも亡骸を探していたということです。

マグダラのマリアと名も無い長血を患っていた女には共通点があります。二人ともキリストに出会う前は「死んだような人生」を送っていたと思われます。「キリスト=あらゆる面での癒やし=命」。彼に出会った時、彼女たちは、それぞれの人生で一大転機(英語でTurning Point)を迎えました。「振り向く」も英語でTurnです。二人とも破滅に向かっていた人生途上、キリストを慕って行きたいと願うだけで、キリストの方から目線を合わせて向き合ってくださったのです。以来、彼女たちは、キリストから目を離さず、歩いて行ったことでしょう。彼女たちは、「キリストを着た」のです。

「主イエス・キリストを身にまといなさい」
ーー ローマ信徒への手紙13:14

キリストの衣を大切にしましょう。キリストの衣を賛美しましょう。例えば窮地に陥ったとしても、主と向き合いたいと願えば、キリストは必ず振り返ってくださいます。あるいは、あなたの名前を後ろから呼んで、あなたが振り返るようにしてくださいます。キリストと向き合いながら歩く道は平です。そして、あなたを緑の野に導いてくださいます。

私たちは、賛美しながらその道を主と共に、たどりましょう。主こそ道標です。唇からは賛美の歌が湧き上がります。ともすれば私たちは「この世の価値」、「人」、「律法と裁き」などを見つめがちですが、それらと向き合おうとしても平安は得られません。キリストを見つめることこそ、真理を見つめることです。

「あなたたちは真理を知り、真理は、あなた方を自由にする」
ーー ヨハネによる福音書8:32

キリスト=真理、衣の色は白です。

「この白い衣を身にまとっている人々は誰か」
ーー ヨハネの黙示録7:13

あなた、そして私もーーー。