2023年3月の聖書タイム「待ち望む春」
by 山形優子フットマン
その日が来ればエッサイの根(キリストの意味)は、
すべての民の旗印として立てられ
国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。
ーーー イザヤ書11:10
今年の英国の3月は、例年になく冷たい毎日です。寒風の中、スノードロップの花が頭を垂れて涙のような形の花を咲かせ、野生のクロッカスも見事に群生しています。冬の間、あんなに静かだったキツツキも姿を現し、春の扉をこじ開けるかのような勢いで、嘴のドリル音を森中に響かせています。次の曲がり角の向こうで春が待っていると分かってはいても、雪まで降ってしまっては出鼻を挫かれた思いです。越冬に疲れ切った自分には、ただ耐えて待つしかない冬の残日が恨めしい今日この頃ーーと言うのが正直なところでしょうか。
ふと、杜甫作の漢詩「春望」を思い出します。出だしの「国破れて山河あり」を読むと、私たち日本の先祖たちは戦後を思ったことでしょう。今は、敗北こそしていませんが、ウクライナの人々のことを思います。かの地の厳寒での戦いは、春になっても続くのでしょうか。杜甫の詩は以下の通りです。
國破れて 山河在り
城春にして 草木深し
時に感じて 花にも涙を濺ぎ
別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
峰火 三月に連なり
家書 萬金に抵る
白頭掻いて 更に短かし
渾べて簪に 勝えざらんと欲す
専門家から怒られるの覚悟で、私が感じるこの詩は次のような状況でしょうか。
「戦争で都市は、すっかり破壊されました。それでも瓦礫の向こうには、相変わらず山がそびえています。そう、残ったのは山河だけ。城跡にも、春は巡り、新緑は萌えるようです。こんな荒廃の中でも、命の生業が続くかと思うと恨めしく、せっかく愛らしく咲いた花を見るに連れても、ついつい涙ぐむだけ。たくさんの死や傷ついた人たちを思い、鳥の声にも、はっとさせられます。戦いの、のろしは、まだまだ長引くばかりで、いつ終わるかもわかりません。疎開していった家族からの音信も途絶えがちとなった今日この頃、たまに届く手紙は、お金には変えられません! 戦いに疲れ果てた自分の髪はすっかり白くなり、抜けて薄くなりました。ピンを止めることもままならないほどです」
本当の戦禍ではなくても、人生に戦いはつきものです。たとえ勝利したとしても、勝ち組にも、破壊、負傷、空虚はつきものです。別の言葉で言えば、戦いが終わる時とは、人生の節目です。そんな時、ある日突然、疲れ果て、すっかり年老いてしまった自分に誰しもが気づくのです。まさに「白頭掻いて 更に短かし、渾べて簪に 勝えざらんと欲す」です。
人生の終わりは冬の終わりに似ています。やっとの思いで走り抜き、ほっとする一方、「何も成し遂げられなかった」との思いもよぎります。たとえ功労者と認められ、勲章をもらい、英国ならサーやレディーの称号を得ても、そしてまた自分が勝利者だと自分に言い聞かせても、心の奥では「果たして、君は本当にそう思うのか?」との囁き声。その声を、あなたは吹っ切れますか? あきらめれば、小さな満足は得られるでしょう。でも、それでは、人の幸せってなんなのでしょう? 「人それぞれ」としか言いようはないのでしょうか?
今から2023年前、自分の幸せを追求せず、自分の満足を充たすことに興味を持たなかった方が、この世にいらっしゃいました。その方は春まだきイスラエルの「されこうべ」と言う意味の「ゴルゴダ」の丘で、30代の若さで死んで逝かれました。何も悪いことはしなかったのに極悪人と一緒にされ、極悪刑の十字架につけられました。私たち一人一人が、「自分の幸せ」を自力で掴もうとするあまり、思わず犯し続けて来た罪を、彼は自分の身に全て引き受けました。
むなしく終わる、この世の命を持つ私たちが、永遠に生き生きと輝く命を手にするようにと、その神の子は十字架の死を私たちのために、黙々と受け入れられたのです。神の子の十字架の死は他人事ではありません。この私が、彼を十字架につけてしまったのです。もちろん、私だって、そんなつもりは全く無かったのですが。悲しいことですが、罪は知らないうちに犯すものなのです。あなたはどうですか?
今、謳歌している私たちの人生が虚しく終わらないように。その命の質が、死に対して脆弱に滅んでいかないように。死という節目を誰でも一度は迎えたとしても、その続きがあるように。神の子は、あなたと共に死の道を伴ってくださいます。また同時に、トンネルの向こう側から、手を差し伸べて引っ張りだしてくださる方です。彼はお産婆さんのような仕事を引き受け、私の命が変容して、再び産声をあげる時、私を取り上げ、胸に抱き、大喜びしてくださる方なのです。
キリストの十字架の死は、あなたへの大いなる恵。あなたと言う大切な一つの命を、暗闇から解放し、安心できる光の道へと繋いでくださる一本道です。たとえ罪があったことに気づいたとしても「大丈夫。任しておきなさい」と彼は言います。欠けているものを補い、不足なものを充たし、壊れたものを直し、病んだものを癒し、全てを生み出す方。彼こそ粉々に砕けた楽園の破片を全て拾い、失われたピースを補足し、パズルを完成させる方。
そんな彼は3日後に蘇りました。本物の命を司る彼は、平和の君と讃えられます。
その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。
ーーー イザヤ書9:5
その方のおかげで、戦いに敗れ、疲れ、荒廃したかのように見える人の命も、杜甫の詩に登場する山河のように、不動に残ります。草は茂り、森は青々とし、家族は再会し、もう手紙を書いたり、今ならズームする必要もなくなります。そして虚無に服していた、全ての被造物は目覚め、花は最高の装いをほこり、鳥は前にもまして美しく囀ります。ローマ人の手紙にはこう書いてあります。
被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは自分の意思によるものではなく、服従させた方の意思によるものであり、同時に希望を持っています。
ーーー ローマ人への手紙8:19~20
クリスチャンは、本当の春を待っています。1年に一回の春ではなく、復活のキリストが再び、この地を支配する日を待っています。春まだき森で、今日も一歩一歩、歩んで行きます。寒くても、辛くても、疲れても、「ハレルヤ!」を唇に!
復活祭が訪れる前から毎朝「ハレルヤ!主は蘇られた」と言ってみましょう!
見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。
ーーー ローマ人への手紙8:24~25