聖書タイム2022年4月「不信仰は信仰の糧」
by 山形優子フットマン
「信じない者ではなく、信じる者となりなさい」
ーー ヨハネによる福音書20:27
復活祭です。キリストは十字架にかけられ、葬られ、そして3日目によみがえりました。ハレルヤ! あなたは、キリストの復活を信じますか? 冒頭の聖句は復活後のキリストが、弟子たち、特にトマスに向かって語られた言葉です。キリストがよみがえったと他の弟子たちから聞いたトマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ信じない」(ヨハネ福20:25)と言いました。そのトマスに復活のキリストが優しく、かつ率直に「信じる者になりなさい」と語りかけたのです。また、「見ないのに信じる人は幸いである」(ヨハネ福20:29)とも言われました。
トマスはキリストに選ばれた12弟子の一人でしたが、他の弟子たちと同様に「復活」は信じ難かったのです。(私たちもそうでしょう。)キリストはご自分の復活を、トマスが望む方法で、理解させてあげようとなさり、傷口に手を入れるよう促しました。実際にトマスが傷跡に指を入れたとは聖書には記録されていません。「トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神よ』と言った」(同20:28)とあります。これが信じなかった者が、信じる者に変えられた瞬間です。
愛弟子ペテロもそうです。十字架にかかる前キリストが、大祭司カイアファのもとへ連行された際、密かについて行った彼は、中庭で焚き火にあたっていました。が、周囲の人々にキリストの仲間だと指摘され、怖くなり3度も「知らない」と強く否定。その少し前、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」(マルコ福14:29)と豪語した彼に、キリストは「あなたは今日、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」(マルコ福14:30)と言いました。確かに鶏は2度、鳴きました。ルカによる福音書22章によると、ペテロは主からそう言われたのを思い出し、外に出て(闇の中で)、一人激しく泣いたとあります。
真理の光に照らされる心の部分が信仰なら、不信仰は自分でも気づかない心の奥の闇、その弱さに気づいて初めて信仰は固まります。なぜなら、そこには悔い改めがあるからです。先日、車を運転している時につけていたBBCラジオ3で偶然、スコットランドのある牧師が「信仰と不信仰とは表裏一体」と語ったのを耳にしました。私にとっては大変に興味深いコメントでした。一部のクリスチャンは「信じる者となりなさい」という御言葉を意外に簡単に繰り返します。そして「信じることが良くて、不信仰は良くない」、つまり信仰VS不信仰と思いがちです。けれども、人は、はじめから信じる者になれるでしょうか?弟子たちでさえ、自らの不信仰に気づく必要があったのです。
「信仰の父」と言われるアブラハムも然りです。旧約聖書には高齢の彼と妻サラに、いよいよ子供が生まれる、と神が語られた際「アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。『百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十九歳のサラに子供が産めるだろうか』」(創世記17:17)とあります。彼が若かった時に神が再三「子孫を砂漠の砂、夜空の星のように増やす」と言われた時には、ただ信じることができましたが、高齢になってしまった時は、人の常識に基づく不信仰をちらつかせました。しかし、この一抹の不信仰が彼の信仰を完成させたのではないでしょうか。
神は人よりも忠実な方です。アブラハムは約束通り息子イサク(笑うという意味)を授かりました。その過程で彼は「神が全能である」ことを身をもって体験し、不信仰を克服したと思われます。その後、神はアブラハムの信仰を試されました。「あなたの愛する独り子イサクをーー中略ーー焼き尽くす献げ物としてささげなさい」(創世記22:2)と。
神の全能を深く信じるようになったアブラハムは、今度は微動だにしませんでした。同行した若者たちに彼は「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる」(創世記22:5)と言い、イサクと共に平然と山に向かって歩いて行ったのです。神はもちろんイサクの命を救いました。ご自身の独り子キリストを、人間の罪を清めるため十字架上の生贄とされた父なる神の思いを、アブラハムはイサクを通して垣間見たでしょうか。いづれにせよ神はアブラハムの信仰の完成を見られ、ご自分の友とされたのです。これが「信仰の父アブラハム」と呼ばれる所以でしょう。新約聖書ヘブライ人への手紙11:1-2には「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました」と書かれています。私たちは今、キリストの「十字架と復活」という取りなしのおかげで、先人たちが味わった火の中を通るような試練なくして「神の友」となれるのです。
不信仰は信仰の糧です。神と向きあおうとする人に不信仰は、つきもの。神を信じる光の道を歩む時、不信仰は闇として炙り出され、その闇が悔い改めを促し、結果として人は浄化され、神の愛をより深く知る者となり、神の友になるのです。私たちの不信仰を神はご存知です。無意識という暗い場所で安穏とする心の破片に、神のスポットライトが当たると辛い。それは痛みを伴う成長過程そのもの、つまり悔い改めです。「光の子」(マタイ福5:14)とされ、幸せになるためには通らねばならない所です。私たちの神は、不信仰も益となさいます。
ところで、悔い改める人の姿勢とは、どんな格好でしょうか?頭を垂れ、膝を折り、両手で上半身を支え、まるで狭い門から、にじるように入る時のよう。日本人である私は、一回に一人しか入れない茶室のにじり口から、ようやく入ろうとする人の姿を思います。中では主が、あなたを客人として、もてなそうと待っていらっしゃいます。不信仰の闇から光へと導かれる信仰の門は、本当に狭いのです。
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
ーー マタイによる福音書7:13-14
私は主のよみがえりを信じます。ハレルヤ!