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2022年8月の聖書タイム「女が水をくみに来た」

by 山形優子フットマン

山形優子フットマンの執筆・翻訳 by 「いのちのことば社
新刊「季節を彩るこころの食卓 ― 英国伝統の家庭料理レシピ
翻訳本:
マイケル・チャン勝利の秘訣」マイク・ヨーキー著
コロナウィルス禍の世界で、神はどこにいるのか」ジョン・C・レノックス著
「とっても うれしいイースター」T・ソーンボロー原作
「おこりんぼうのヨナ」T・ソーンボロー原作

「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」
ーー ヨハネによる福音書4:14

夏です。今朝のニュースでは、英国の南部が水不足で、庭の水撒きがしばらく禁止になると報道されました。私の住むウィンブルドンにある自然保護地区内にはいくつか池がありますが、いつもの犬の散歩道にある池はすっかり干上がり、真ん中を歩けるほど。ゴルフ場はスプリンクラーのある「グリーン」だけが文字通り緑で、あとは茶褐色、さらに奥にある、大昔ローマ軍が陣営を張った松林付近にある「シーザーの井戸」の、飲める湧水も途絶えました。いつもは大きな空ボトルを手押し車に乗せ、水くみに集まる人たちで賑わいますが、今日は静かなものでした。

そんな真夏に、冒頭の聖句を読むとイエス様は実に便利な水を与えてくださる方だと感心せざるを得ません。ヨハネによる福音書4:15にもその便利さに感動し、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」と叫んだ一人の女がいました。彼女の名前は分かりませんが、聖書にはサマリアの女と書かれていますユダヤ人にとって、隣接するサマリアは宗教的に異端、もちろん交際はせず、遠回りしてまでサマリア道を避けたほどでした。 

「サマリアの女」は、その敬遠されていた同胞のサマリア人からも見下されていたようです。一行は、事情があってサマリア道を選びましたが、シカルの町外れにある井戸まで来ると、6節には「イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。サマリアの女が水をくみに来た。」とあります。

水くみは当時の女の仕事で、早朝、暑くならないうちに済ませたようです。くんだ水を運ぶのは一仕事なので、近場の井戸を使うのが普通でした。けれどもこの女は、わざわざ町外れの遠い井戸にしかも炎天下の正午にただ一人で水をくみに来ていたのです。人目を忍ぶ様子がうかがわれます。16節以下でイエス様は、女の過去、つまり5人の夫がいて、今一緒にいる人は夫ではないと言い当てます。彼女が遠路辛い思いをして一人で水くみに来るのが頷けます。

私はヨハネによる福音書の、この箇所が大好きです。特に「イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた」は、イエス様が本当に疲れていたこと、その続きの「イエスは、(女に)『水を飲ませてください』と言われた」も、喘ぐような喉の渇きが伝わって来ます。神の子が、私たちと同じに疲れ、喉も渇く、人間の弱さを持っていた・・・炎天下、主の額の汗を目の当たりにするかのような箇所です

ここで注目したいのは、イエス様の姿勢です。イエス様は姦淫の罪の只中にいる女立っていた彼女よりもだいぶ低い姿勢つまり井戸端にしゃがんだまま、「水を飲ませてください」とお願いする立場をとりました。神の子は「渇かない命の水がある」ことを伝えるために「底辺の女」よりも低い姿勢で、彼女と向き合ったのです。

イエス様の、その姿勢に私たちは学びたいものです。自分が正しいという驕りを捨てきれない私たちは神の愛の姿勢がどんなに低いかを忘れがちです。クリスチャンはよく「主に、つかえたい」と言います。それは自然なことですが、主こそ、あなたに、そして私につかえたいと願っているのです。人間は「神は自分よりも高いところにおられる」と思っているので、頭(ず)が高いままの立ち位置を平然と維持しています。けれども、神様は、そんな私の、あなたの傍で、身を低く低くして、静かに、つかえてくださるのです。自分の頭上か目線しか見ようとしない私たちは、「いったい神はどこにいるのか」と時には疑いさえするのです。

さあ、神よりも低い姿勢をとることは、果たして傲慢な人間にできるでしょうか?隣人につかえずして、神につかえていると勘違いしている向きもありそうです。また「つかえる」の意味を履き違え、やたら隣人の下手に出ることで、自分を崇高にもって行こうとしたりしていませんか?

自然の法則では、水は低いところに向かって流れます。命の泉も低いところに向かって流れます。その水をいただくには、身をかがめないと飲めません。モーセが神の言葉を記した旧約聖書の5つの書「モーセ5書」をトーラーと呼びます。これはヘブライ語で教えという意味ですが、命の水」とも言われるそうです。魂の渇きを癒す水とは永遠に湧き出る、生きた神の御言葉の泉です。

ところで、サマリアの女が、どんな理由で5人の夫を持ったかは、知るよしもありません。聖書によると、シカルとは「ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、サマリアの町」、そこには「ヤコブの井戸があった」とあります。井戸からは、遠くゲリジム山にあるサマリア人の神殿が見えたようです。彼女は水をくみながら、何を思ったでしょうか?いつか自分もヤコブやヨセフのような人に出会えたら」と、半ば諦め、半ば夢見ながら、来る日も来る日も、水くみをしたでしょうか。理想の男性像に敗れ、次から次へと5人もの夫を持った彼女を、人々は蔑み、見捨てました。神だけが、彼女に目を止めました。彼女はヤコブやヨセフには比べものにならない「神の子」に出会い、命の泉を掘り当てました。そして、それを人々に伝える大きな役を担ったのです。

聖書には次のようにあります。

「女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。『さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。』人々は町を出て、イエスのもとへやってきた。」
ーー ヨハネによる福音書4:28ー30

こうして名も無い「サマリアの女」は、世紀を経て読み継がれる聖書の中で、永遠の命の水をくむ、水がめを持つ者として、読む人々の心をとらえ続けます。罪の重荷で堰き止められ、かれかけた水が、今、飲み水と変えられ、イキイキと流れ出します。さあ、あなたも身をかがめて、水がめを手にしませんか?