2022年9月の聖書タイム「さあ、新しいワインを共に飲みましょう」
by 山形優子フットマン
「新しい葡萄酒は新しい革袋に入れなければならない」
ーー ルカによる福音書5:3
人生の節目は、思いがけなくやってきます。しかも、色々な形で。転職、退職、結婚、離婚、引っ越し、肉親の死、病気、等々です。それにつきまとうのが、断捨離でしょう。いらないものを捨て、これまでの自分にキッパリと別れを告げ次へ移る。冒頭の聖句は、古いユダヤの教えにしがみついていた律法学者達に向けイエス・キリストが語った言葉です。律法による裁き、つまり減点法によって自分や他人を裁くことに終止符を打ち、愛と赦しを中心とする生き方への切り替え(悔いあたらめ)を勧めたのです。
9月はワイン用の葡萄の収穫期が始まる時期です。昔のイスラエルでは、屠った羊の革袋に新しいワインを入れて発酵させたようです。革袋は羊の形をそのままとどめたような形、つまり動物の姿をとどめたバッグのようなもの。ですから、ワインの発酵が進むと、弾力性のある革袋が徐々に膨らんで、まるで羊の風船のようになったそうです。一方、一度使った古い革袋を再利用しようものなら、発酵力に耐えきれず、革が裂けてしまうわけです。従って新しいワインは新しい革袋に入れると言うのが常識でした。
キリストの十字架の血潮(聖餐式ではワイン)によって許されクリスチャンになった私たちは新しくされました。ですから、冒頭聖句の例えの、新しいワインのようなものです。従って当然、新しい革袋に収めれば、良い具合に成熟し感謝と喜びが自然と膨れ上がる人生になるはず。あなたは喜んで生きていますか?あなたは感謝に溢れて生きていますか?はちきれんばかりの喜びがありますか?もし、萎んでしまったような人生なら、せっかくの新しい自分を、昔ながらの古い自分という器(革袋)に押し込んでいるのかもしれません。
神を無視してなんでも自力で決断してきた古い自分に、未練があるのでしょうか。「過去があるから今の自分がある」のも然りですが、それなら、なおのこと、キリストによって解放されたという感謝と喜びに目が行くはず。そうすれば自然とイエス様の素晴らしさを賛美し、感謝の気持ちが込み上げてくるはずです。毎日、解放された朝を迎える喜びがあるはずです。どうでしょう、朝の目覚めを当たり前のように思っていませんか?
クリスチャンは言ってみれば、釈放された囚人です。キリストが罪に閉じ込められていた私たちの身代わりになってくださったので無罪釈放、自由の身になったのです。罪が許されたのに、いまだに以前の癖や習慣を捨てきれず、つまり主に許していただいたのに、自分自身が自分を許せず、自分や他人を裁き続けるなら、その人は「真理の自由」を謳歌できません。ヨハネによる福音書には「真理はあなた方を自由にする」とあるではありませんか。
そう、聖書には真理が書かれています。けれども、聖書をいくら読んでも、あなた自身が「クリスチャンになった新しい自分」と「古い自分」とに境界線を敷いて、古い自分を死守する限り、新ワインは古い革袋に入ってしまいます。そんな状態だと、聖書の言葉は色褪せた日常の標語になるだけです。旧約聖書と新約聖書には一つのベクトルが通っています。そのベクトルは「キリストがどんな方なのか」を指し示しています。あなたの主がどんな方なのか、聖句の生い茂る森(聖書)の中に入って真剣に探してみませんか?
ただし、聖書を読んでいれば良いというものでもありません。ご存知のように聖書だけが信仰生活ではありません。毎日の生活の中で主が、あなたと同じ目線で共に歩かれている事実を感じることが大切な信仰生活の一環です。(そのためには聖書を知る必要がありますが。)主を毎日、何度も見つけましょう。聖霊様が助けてくださいます。そうすれば、この世の日常生活と信仰生活は限りなく修練します。
主は次のように言われます。
「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」
ーー ヨハネによる福音書15:15
キリストのおかげで毎日新しくされる「あなた」を、注ぎ入れるための、新しい愛の革袋は既に主によって用意されています。古い革袋に戻してしまうのか、新しいのに入れかえるかは、あなたにかかっています。新しい革袋は主を感じながら祈りながら生きる日常です。
9月はワイン用の葡萄の収穫が始まる月です。十分発酵した、あなたのニュー・ワインの解禁日はいつになるでしょう。程よく熟成したなら是非、友人たちを招き、新ワインを味わうパーティーを開きましょう。旧約聖書コヘレトの言葉9章の7節には「さあ、喜んであなたのパンを食べ、気持ちよくあなたの葡萄酒を飲むが良い」とあります。罪から解放され、主からいただいたその年の麦と葡萄の恵を、なんのこだわりも心配もなく、いただく・・・私たちクリスチャンには、こんなにも、おおらかな恵が与えられています。その恵を知り、その恵を一雫も逃さないよう、感謝し喜んで受け取りたいものです。
「わたしは主にあって喜び楽しみ
わたしの魂はわたしの神にあって喜び踊る。
主は救いの衣をわたしに着せ
恵の晴れ着をまとわせてくださる」
ーー イザヤ書61:10