聖書タイム2021年4月:「復活のキリストが最初に現れた女」
by 山形優子フットマン
「いのちのことば社」翻訳本:
「マイケル・チャン勝利の秘訣」マイク・ヨーキー著
「コロナウィルス禍の世界で、神はどこにいるのか」ジョン・C・レノックス著
マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た2人の天使が見えた。1人は頭の方に、もう1人は足の方に座っていた。天使たちが「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。マリアは、園丁(えんてい)だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。先生という意味である。
ーーヨハネによる福音書20章11~16節
今月の聖句は十字架にかかり死んで葬られ、3日目によみがえったイエス・キリストの復活シーンです。実はこのくだり、フェミニズム(?)の走りかもしれません。ここに登場するマリアとはマグダラのマリアのこと。当時、女性は第二の性とみなされ、時には汚れた性とあしらわれていましたが、神は復活したキリストの最初の証人として女性であるマグダラのマリアを選んだのです。
冒頭の聖句は、金曜日に墓に葬られ、土曜日は掟に従い安息し、日曜日の早朝、マリアがやっと恩師の墓を訪ねた時のこと。見ると、墓を塞ぐ大石が取り去られ、中に安置されていたキリストの遺体が無かったのです。そうでなくてもキリストの酷い死に様に、打ちひしがれていたマリア。さらなる遺体紛失は打撃だったはず。彼女が絶望のどん底で墓の前に這いつくばった時、後ろから復活したキリストが声をかけました。ところが彼女は涙の谷の真っ只中、主を墓守と思い込みました。そう、確かに振り返って彼女は「園丁」らしき人を見たのですが、涙で目が霞んでいたのでしょうか、キリストだとわかりませんでした。
と、次の瞬間、涙がひっこんでしまった出来事が。神の子の声が自分の名を呼んだのです。即座にマリアは、今度は体の向きを一回転させ、キリストを正面からはっきりと見て「ラボニ!」と叫びました。一瞬のうちに、涙は喜びに。それはキリストに救われ、180度転換した彼女の人生を象徴したかのような瞬間でした。「わたしは主を見ました」(ヨハネによる福音書20章18節)と彼女は弟子達に証しました。
一時、話題になった米国の推理小説「ダ・ヴィンチ・コード」は、マグダラのマリアを必要以上にスキャンダラスな女性に描きました。加えて彼女は娼婦だったと見る向きもあります。けれども聖書は、主によって「7つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」(ルカによる福音書8章2節)と簡素に描写するだけ。さらにキリストや弟子たちの身の回りの世話をしていたチームの一員だったとの記録もあります(ルカによる福音書8章3節)。マグダラはガリラヤ湖畔の風光明媚な観光地の名で、当時マリアと呼ばれる女性がたくさんいたため、名前の前に出身地をつけて呼び分けたのです。
さて、ここで、もう一人のマリアについて一言。キリスト降誕の際、聖霊の恵みで母という役割を担った13歳の清純娘マリアは夫ヨセフと共に人の形をとった神の子キリストを産み育てました。この母マリアとマグダラのマリアとは年齢も近かったようで、支え合い、心を抉(えぐ)られながらも2人はキリストの十字架の死を共に見守りました。一方、復活のキリストが真っ先に現れたのは、マグダラのマリア1人だけ。7つの悪霊に支配された過去のある女、そして悔い改めて新しい人生を歩んだ人。キリストは「辛い過去があっても、私の血潮に預かれば許され、永遠の命につながる」と彼女を通し、私たちに伝えているような気がしてなりません。キリストの誕生・十字架・復活では、2人のマリアがそれぞれに大活躍したのです。
今キリストは、あなたの名を呼んでいます。あなたは、その声を聞き分けますか? その声の主は、あなたを命の水の流れに伴ってくれます。マリアが光の中に佇んだ、あの朝以来、天の祭壇の下からは真紅の水が湧き出て、やがては大河となり、勢いよく全地を覆い外海へと流れ出しました。この赤い河は、靄(もや)に覆われたかのようで、肉眼では見えません。しかし今も、とうとうと流れています。もう一人で悩む必要はありません。神の子の血潮の大河から、好きな時に好きなだけ「命の水」をすくって飲むことが許されているのですから。
イエスは立ち上がって大声で言われた。「乾いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れでるようになる」
ーーヨハネによる福音書7章37~38節