2022年12月の聖書タイム「星を見上げて歩こう」
by 山形優子フットマン
「わたしは信じます。命あるものの地で主の恵を見ることを。主を待ち望め 雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。」
ーー詩篇27:13-14
冒頭の聖句のメッセージは「主を待ち望め」です。イスラエルの古人たちは、救い主メシアの誕生を気の遠くなるほど前から待っていました。けれども、「救い主」と言っても、そのイメージは世紀を経て千差万別、今も私たち一人一人の「救い主」への期待やイメージは異なっているはずです。
「わたしの思いは、あなたたちの思いとは異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように わたしの道はあなたたちの道を わたしの思いは、あなたちの思いを、高く超えている」
ーーイザヤ書55:8ー9
上記は旧約聖書イザヤ書からの引用ですが、神様ご自身が「君たちはズレている」とおっしゃっているのがわかります。ご存知のように新約聖書を通じて、律法学者たちはイエス・キリストを「救い主」として受け入れませんでしたし、弟子たちでさえ、「ローマの支配下から解放してくれるユダヤの王様がキリストだろう」と、誤解していた者も中にはいました。もちろん、彼らの目が開かれたのはキリストが復活した後でした。
それと同じように、私たちのクリスマスのお祝いも、本当のメシアの誕生からは、だいぶズレています。プレゼント、ツリー、キャロルを歌うこと、英国だったら七面鳥、クリスマスプディング、ミンスパイなどを食べること等々、たとえ教会に行って礼拝を守っていても、大きなズレはあるはずです。
もちろん楽しいクリスマスの恵を大いに謳歌するのは良いことです。ズレたままでも、神様は喜んで「それで良い」と言ってくださる愛の方です。要するに、神様は人間の思いや期待を、はるかに超えた存在だということを忘れないようにしましょう。私たちが小さな頭を寄せ合って、なるべく間違わないようにしたところで、それは風がない束の間に掃き集めた落ち葉のよう。一風吹けば、落ち葉はまた、ここかしこ、定めなく吹き飛んで行ってしまうのと同じです。
このクリスマス、「主を待ち望む」ということに思いを巡らせてみませんか? そうしても、どうせズレてはいるのですが、少なくとも、黙想とともに「主を待ち望む」フィーリングを体験することができるかもしれません。自分よりも、はるかなる偉大な方をお迎えする喜び。理屈や是非を超えた真理の光を待つ心の状態とは、どのようなものでしょうか。忙しすぎる私たち、特にネット時代は全て情報にたより、情報を開示、明るみに出す傾向にあります。けれども、神様の神秘こそ、計り知れない恵の源で目には見えず、開示されてはいない神秘なのです。
では、原点に戻り、キリストの誕生に思いを巡らせてみましょう。ベツレヘムという点のように小さな村、その村はずれの厩は岩場をくり抜いた洞窟。飼葉桶の中には、小さな、いたいけない赤ちゃんが。
そこにやってきたのは羊飼いたち。羊の番が重労働で、神殿へのお参りがままならなかったため、清くないと蔑まれていた人々でした。そして時間は少しズレたようでしたが、今のイラク、東方からは、占星術を駆使していた3人の博士がやって来ました。光を尋ね求めて、やっと見つけたのが赤ちゃんでした。羊飼いたちも博士たちも全員、不思議な星の光に導かれ集まったのです。神様の招待を受けた人たちです。そこには王様も貴族も権力者たちの姿もありませんでした。
私たちは、それぞれに自分の願いをもち、希望を持って日々、歩いています。それが、たとえ神様の御心からズレていても、神様の指し示す星の光に向かって、それぞれの心を寄せ、その光を求めて歩こうとしています。それは素晴らしいことです。
このクリスマス、心から主の生誕を喜びます。不足なものではありますが、心からメリー・クリスマス!
優子より