1月の聖書タイム「捨てられた石の名は愛」


by 山形優子フットマン

山形優子フットマン、いのちのことば社での執筆・出版物

2025年Bible & Life ( 百万人の福音)でクリスチャン・エッセイ「ロンドンの窓辺からーー聖書の息吹と女性たち」を連載中



2022年Bible & Life (百万人の福音)で1年間クリスチャン・エッセイ「紅茶便りーーセピア色の思い出」を連載



季節を彩るこころの食卓ー英国伝統の家庭料理レシピ(福音版2年間連載分が出版に)



翻訳:「おこりんぼうのヨナ」「とっても うれしいイースター」(ティム・ソーンボロー著)、「コロナウィルス禍の世界で、神はどこにいるのか」(ジョン・C・レノックス著)、「マイケル・チャン勝利の秘訣」(マイク・ヨーキー著)など。

「こういうわけで、いつまでも残るものは、信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」ーーーコリントの信徒への手紙1、13:13

新年明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いいたします。

日本の松の内は関東などでは7日間、8日目からは「松の内が開ける」と言います。正月が終わり、いよいよ新年の日常が始まるわけです。お屠蘇気分に終止符が打たれ、現実が待っています。一方、英国ではクリスマスの日から数えて12日目に当たる1月5日に正式にお祝いシーズンが終わります。戸口につけたリースを取り除き、ツリーの飾り付けを外します。それまで居間の懐で、キラキラと不思議な輝きを放っていたツリーは一転、ただの干からびた裸のもみの木に。用済みのは家々の前の歩道に無造作に捨てられます。数日後、市の清掃局がトラックを仕立てて木々を回収して行きます。

つい先日、マーケットで格好の良いのを選び、飾り付けをし、家の中がモミの木の香りでいっぱいだったのに。ツリーが無くなった居間は、未だ書き込みが無い新しいカレンダーのように、寒々しい感じです。美しいツリーの存在は、暗い冬にどれだけ希望を与えてくれたでしょう。思えばクリスマスとは本当に短期間。去るクリスマスも例年通り英国伝統のターキーディナーを家族でいただきました。そして神が人類の救いのために独り子を世に贈られたのにあやかり、互いにプレゼントも交換しました。いつもは教会に行かなくてもクリスマスキャロル・サービスを楽しんだ方々も多いはず。

リスマスは年に一回だけ。「キリストの誕生」も時期が終わると、枯れたツリーのように巷に捨てられゴミとして扱われていないでしょうか。「宗教はよくない」、「宗教に、はまりたくない」と警戒心を高めるのが現代の知的常識人だとしたら、本当に残念です。手前味噌と言われればそれまでですが、キリストは「宗教」の枠を超えた「命」そのもの。神の子は教祖になるために、この世に来たのではありません。頂点で威張って下々に貢がせるのが目的ではありません。それどころか彼は私たちを解放するために、私たちに、つかえてくださいました。そう、まるで用済みのもみの木のように私たちに捨てられるために来ました。マルコによる福音書10:45には、次のように書かれています。「人の子は仕(つか)えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである。

また詩篇118:22に「家を建てる者の退けた石が隅の頭石となった」ともあります。退けられた石はキリストです。普通、頭石とは土台を作るのに欠かせない大切な石ですが、「いらない」ので捨てられた石が隅っこで重要な頭石になるとはどういうことでしょう?まずわかるのは、遺棄された石ころが頭石になるということ自体、世の中の常識を逸脱していること。また、隅にある石とは、なんと謙虚な様相でしょう。一見、石は人に捨てられたようではありますが実は、キリストと父なる神が愛を持って、わざわざ隅に置いたのです。石に名があるとしたら、その名は「愛」、キリストの十字架の贖いです。その石の上に目には見えない父の御国、天国が築かれています。この御国は、この世の中心から視点をずらして、常識はずれなほどに角度を変えて見ないと見えません。天国は死後の国ではなく、見方を変えればあなたのすぐ近くにあります。そして、あなたも私も、この世にいる時から、捨てられた石(キリスト)の上に、共に御国を作ることができます。

4年前のこと。体調を崩し緊急入院しました。その時、末期癌の英国人の女性と知り合いに。彼女は「死んだら私のために楽しみが用意されていることを知っている。それはね、イラク戦争で亡くなった息子と再会すること。息子はね、ちょうどバグダッドに到着し空港で点呼のために並んでいた際、爆弾を落とされ死んだの。良くできた子で、本当のジェントルマンだった」そう語る彼女の目は本当に輝いていました。死を目前にしても、こんな希望が持てるなんて「人生は、この世だけでは終わらない」と私は励まされました。この息子さんは、この世の尺度では捨てられた木、あるいは石のように、無駄死にだったかもしれません。けれども彼は母親の心の隅に永遠に生きる存在として、試練に直面する彼女を激励し、死の先にもライフがあるとの希望を指南し続けます。ヘブライ人への手紙11:1には「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」とあります

望んでいる事柄」は理解できるとしても、見えない事実の確認方法とは?ローマ人への手紙10:10~11にはこう書かれています。「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。聖書にも『主を信じる者は、誰も失望することがない』と書かれています。」と。病院で出会った彼女は見知らぬ私に自分の希望を語ることで信仰を強めたはずです。自分の思いを口に出し、自分の耳で自分が言っている言葉を聞き、その言葉が自分の心に一致しているかを確かめる手続きが必要です。これは欧米で発達したカウンセリングの原則とよく似ています。聖書の会で読後感想を言い合うのが大切なのは、自分がどう思っているかを口に出して自身を探れば、自分の思いを確かめることができ信仰の成長につながるから。「自分は絶対に意見は言わない」と決めている人が案外多いのは残念なことです。ましてや口に出して「キリストを救い主として受け入れる」と言うに至るまで、どれほどの時間がかかるでしょう。ヨハネの手紙1、4:1516には次のようにあります。「イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人のうちにとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また確信しています」

冒頭の聖書を再読しましょう。「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」ーーーコリントの信徒への手紙1、13:13

もうお分かりですね。愛こそ全ての源です。

愛があれば、希望に繋がり、信じて生きて行くことができます。ツリー、プレゼント、ディナーなどは全て愛に基づいたものですが、目に見える物、手でさわれる物は当然のことながら、やがて消えます。それでも、消えた後でも、残るのは愛です。そして「神は愛ですーーヨハネの手紙1、4:16

逆から言っても然り、キリストを信じる者の希望は決して絶えることがありません。なぜならキリストは「愛」の源だからです。

クリスマスの装いを外した居間はちょっぴり殺風景かもしれません。でも窓辺から差し込む朝の光は穏やかです。今年も、この素晴らしい「捨てられた石」の上に限りなく尊いものをご一緒に築いていきませんか?

はっきり言っておく、あなた方が地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」マタイによる福音書18:18~20