4月の聖書タイム:「門を開けたバラバ
by 山形優子フットマン
「ピラトは、言った。『真理とは何か。』こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。『わたしはあの男に何の罪も見いだせない。ところで過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。』すると、彼らは、『その男ではない。バラバを』と大声で言い返した。バラバは強盗であった。」ーーヨハネによる福音書18:38~40
みなさん復活祭(イースター)おめでとうございます。復活祭はキリストの十字架の死、無くしてはありえません。今月の聖書箇所の背景はみなさんご存知のように、当時ローマの管轄下にあったユダヤの総督ポンテオ・ピラトと民衆との一場面です。
キリストは正当な裁判を受けることなく、たらい回しにされ、ローマ人ピラトのところへ送られました。ユダヤの祭司やお偉方たちは、過越の祭り前にキリストを処刑(ユダヤでは石打ち)したかったのですが、そうすると自らの身が祭り前に汚されることもあり、異邦人ピラトに任せ、ローマの極悪刑、十字架につける算段を取りました。
ピラトは、いつもはヘロデ王が造った古代都市カイサリアにいたのですが、過越の祭りの時だけはエルサレムの治安を守るために都にとどまりました。冒頭聖句でわかるように、過越の祭り前には恒例の恩赦がありました。総督ピラトは「無実」のキリストを釈放したいと思ったようですが、祭司長たち、議員たちが民衆を扇動し、人々が「バラバを!バラバを!」と叫び続けたため、バラバが恩赦に預かりました。
ところで、このバラバさんとは、一体誰でしょう?彼のことは4つの福音書全てに記載されています。冒頭ヨハネによる福音書によれば「バラバは強盗であった。」一方マルコによる福音書15:7には「さて、暴動のとき、人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバと言う男がいた。」とあります。ルカによる福音書23:19には「このバラバは都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。」と記されています。
3つの福音書ヨハネ、マルコ、ルカによる記述をまとめるとバラバさんは強盗、暴徒、殺人で牢獄にぶち込まれていたようです。彼は反ローマ・ユダヤ民族開放戦線の今で言うテロリストだったとの説もあり、強盗はテロ活動の資金調達のためだったとも言われます。この暴動についてルカによる福音書には二度記載があります。一回目は13:1「ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえと混ぜたことをイエスに告げた。」、2回目は既に先に紹介した23:19「このバラバは都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。」です。都で起きたユダヤ人の暴動をピラトが力づくで鎮静し、ガリラヤ人の死者が出た事件ですが、その際にバラバさんも他の暴徒と共に逮捕されたようです。
民衆はなぜ罪のないイエスでなく、祭司長たちの「さくら」に扇動されバラバさんを選んだのでしょうか?仔ろばの背にゆられ、子供たちに大歓迎されながら都に入った柔和で平和な君キリストよりも、想像するに筋肉隆々、ヒゲモジャで精悍なテロリスト、バラバさんの方がローマと戦うには将来、役立つかもしれないと勢いに乗ったのでしょうか。
最後に4つ目、マタイによる福音書のバラバさんの描写を点検しましょう。「ところで、祭りの度ごとに、総督(ピラトのこと)は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。そのころバラバ・イエスという評判の囚人がいた。ピラトは、人々が集まって来たときに言った。『どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。』(ピラトには)人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。」ーーー27:15~18
実はこの悪漢バラバさんのフルネームは「バラバ・イエス」です。当時、「イスラエルの神は救いである」との意味である「イエス」という名前は珍しくありませんでした。ですから、恩赦の選択対象となった二人の男の名前が同じ「イエス」でも不思議ではありません。では、バラバはどういう意味でしょうか?アラム語でバーとは息子(son)、アバは父(father)、つまりバラバとはson of the father、「父の息子」 。バラバの父親はそれなりに名を成した人だったようです。
一方、キリストは「油注がれた者」との意味で、ギリシャ語のクリストスに由来します。けれども、皆さんもご存知のように彼の異名は「父(なる神)の(独り)息子」The only Son of the Father です。ということはキリストも、悪漢バラバさんも同じ「イエス・バラバ」という名前。違いは英語だと「父なる神の子」は大文字なので、小文字で書かれる「父の子バラバ」と区別できますが、二人は同姓同名だったのではないかと推測する向きもあります。そして、民衆は「小文字バラバ」の方の釈放を請いました。あなたが民衆の一人で、その場にいあわせたなら、大文字、小文字、どちらの「バラバ」を選んだでしょうか?
過越祭の時は、全てのユダヤ人がエルサレムにお参りに上がってくるため、都の人口は何倍にも膨れ上がり大混雑しました。ですからエルサレムは一触即発状態です。民衆の意向が優先される恩赦、ここでピラトが「大文字」の方を救おうとゴリ押ししたら、先に触れたユダヤ人暴動事件が再発する可能性もあったわけです。彼自身、今で言う海外駐在員でしたから、暴動再発となったら将来の立場にマイナス影響は間違いなし。マタイによる福音書27:24によると、ピラトは「それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。『この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ』」と。あなたが、ピラトだったら、どうしたでしょうか?
こうして「神の子バラバ」は、「人の子バラバ」とすり替わったかのように十字架刑に処されました。テロリスト「イエス・バラバ」さんは、自分の命が助かったと狂喜したに違いありません。自分はなんてラッキーなんだ・・・と。ところで気になるのは、彼のその後です。これを題材にした小説もあるようです。また、教会の説教テーマでは「バラバは改心し、その後の人生をクリスチャンとして生きた」という美しいストーリー展開が期待できます。
悪運強いバラバさんのその後については、聖書のどこにも記録されていません。ですから、ご想像にお任せしますとしか、言いようがありません。けれども一つだけ言えるのは、バラバさんは「あなた」であり、また、この「私」です。うまいこと生き延びたのです。それは単にラッキーではないのです。尊い、もう一人の「バラバ」によって代償が払われ、そのおかげで命拾いをしたのです。その十字架の犠牲の血潮で清められ、あなたも私も、例のバラバさんも自由になり、命拾いしたのです。
「私は殺人はもちろん、強盗もしない。暴徒と化したこともない。悪いことは一つもしていない」と、ほとんどの方は胸を張って言うでしょう。でも、あなたは人を抹殺したことはありませんか?人をねたんだことはありませんか?お膳をひっくり返して啖呵を切って怒り狂ってやりたいと思ったことはありませんか?大なり小なり生きていれば一人や二人、苦手で憎む相手に会っているはず。あるいは、そう思わないようにしているけれど、本心はどうでしょう?その意味で「人の子」バラバさんは私たちの代表者かもしれません。
3日目の早朝、キリストは甦られました。新しい体、新しい命をもって。罪が巣くう開かずの死の門の存在は、これまで人を恐怖に陥れてきましたが、「神の子」が、その扉をこじ開けてくださいました。その門は、朝ぼらけに浮かぶ空っぽで無用になったキリストの墓のような様相で、今は枠組みが佇むだけとなりました。しかし、その門の枠組みこそ、キリストに続く者にとっては凱旋門です。
キリストはこの世の栄華とかけ離れた不浄な厩で産声を上げました。そして、十字架後に私たちに用意して下さった栄光の門もまた、この世の尺度では見過ごすような門。人は喜びながら、歌いがなら、スキップしながら、小躍りしながら、開かれたこの門をくぐり抜けて行きます。なぜなら、この門こそ、キリストが勝ち取った「永遠の命」への入口ですから。世の人々は豊かな愛と光の世界への入口が、こんな質素な佇まいとは思わないはず。その簡素な凱旋門、あなたにも見えますか?
「ーーー『聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持つ方、この方が開けると、だれも閉じることなく、閉じると、だれも開けることがない。その方が次のように言われる。「わたしはあなたの行いを知っている。見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。ーーーー」ーーーヨハネの黙示録3:7~8
イエス様ありがとう。
皆さん、主の復活を心からお祝いします