1月の聖書タイム「初・終・初・終・初」


by 山形優子フットマン

山形優子フットマンの執筆・翻訳 by 「いのちのことば社
新刊「季節を彩るこころの食卓 ― 英国伝統の家庭料理レシピ
翻訳本:
マイケル・チャン勝利の秘訣」マイク・ヨーキー著
コロナウィルス禍の世界で、神はどこにいるのか」ジョン・C・レノックス著
とっても うれしいイースター」T・ソーンボロー原作
おこりんぼうのヨナ」T・ソーンボロー原作

天は巻物が取られるように消え去り、山も島も、みなその場所から移された。」

     ーーーヨハネの黙示録6:14

日本をはじめ世界は波乱万丈の年明けを迎えました。冒頭の聖句はローマのドミティアヌス帝によるキリスト教迫害を受けたキリストの愛弟子ヨハネが、流刑地パトモス島(ギリシャ)で見た幻を記録した「ヨハネの黙示録」(推定AD70年~95年)からの引用です。神から掲示されたビジョンは、この世の終末、キリスト再臨など壮大で複雑、視覚に強く訴えるものばかり、お読みになった方は戸惑い、圧倒され、怖くなる人もいるはず。冒頭句は「目に見えていたものが見えなくなるのが見えた」という、なんとも想像の域を越えたビジョンです。

今まで、あるとばかり思っていたものが、あっと言う間に消えて行く瞬間を捉えた表現ですが、あなたは「当然あると思っていたものが急に無くなった」経験をお持ちですか?愛する人の存在、自分の故郷、健康、命、金銭、等々。あって当然だったものが突然消えるのは、誰にとってもショックです。不意打ちほど人の足をすくうものはありません。黙示録のビジョンは「終末」の不意打ちをかけられた「この世」の姿、今まで思い込んでいた世界とは違う世界が現れ、何もかもが根こそぎ揺り動かされる様相です。

一方、神にとって不意打ちはありません。父なる神の名、ヤハウェーとは「ありてあるもの」という意味です。それは存在そのもの、全能かつ不動な存在、私たちの知恵や知識を超える永遠の命の存在。黙示録1:8で「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方」と記されているのをお読みになれば、神の存在が時間を越えたものとわかるでしょう。この句の後は「全能者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである。』」と続きます。ご存知のように、ギリシャ語でアルファとは初め、オメガとは終わり、つまり「終始一貫して全部」。過去、現在、未来です。

黙示録の他の箇所でも、アルファとオメガは何度も繰り返されます。例えば21:6また、わたし(ヨハネ)に言われた。『事は成就した。わたし(神)はアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。乾いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。』」最終章22:13にも「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」で括られます。言ってしまえば、黙示録はキリストのメッセージ「わたしはアルファであり、オメガである」で始まり、またその言葉で終わります。

初めと終わりは「セット」とでも言いましょうか?あるいは表裏一体?この意味の深さは専門家の域ですが、ここでは日常レベルでみてみましょう。新年は文句なくアルファでしょう。けれども去った年(オメガ)があるからこそ新年が明けます。赤ちゃんの誕生は誰もが「初め」アルファと考えるはず。でも見方を変えると、妊娠期の終わり。ママのお腹の中で、ぬくぬく育っていた時代の終わりなのでオメガとも言えます。

人の命も然り。死は人の存在に終止符を打つからオメガ、お先真っ暗、希望の光が無い状態のはず。ところがキリストはこの「終焉」の只中にもいらっしゃいます。何故なら「オメガ」だからです。そして死を新しい初まりアルファにつなげる方です。キリストは黙示録1:17~18で「私は最初の者にして最後のもの、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている」と語ります。十字架の死と3日目の復活は、切っても切れません。十字架の死と復活はアルファでありオメガです。そう、死は終わりではなく、死の先にも初まりがあるようです。

黙示録は希望と勇気を与えてくれる書です。その例を、いくつかあげてみましょう。

《希望要因1》は、先にも少し触れましたが「わたしはアルファでありオメガである」という言葉そのものです。初め・終わり・初め・終わりというように、生ける神こそは「リジェネレート」する命の源、ドクドクとした鼓動のような動き、呼吸をする方。(創世記2章参照)微動だにしない、時を越えた存在なのに、今の瞬間、息吹を伴って命を再生し、私たちを常に新しくする方です。ヨハネは次のように記録しています。「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海も無くなった。ーーー黙示録21:1と。迫害・試練の只中にいる時、私たちを新しくし、新しい朝をくださる神は、必要な力、助け手、慰めを与えてくださいます。耳を澄ましてください。「私があなたを癒す」と神はあなたに直接、語りかけています。

《希望要因2》はキリストの容姿です。実はあまりハンサムではなかったようです。イザヤ書53:2には「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。」と預言されています。一方、ヨハネのビジョンに現れたのは十字架、復活、昇天後のキリストの、ものすごい容姿で、ハンサムどころかオーサム。

燭台の中央には人の子のような方がおり、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた。その頭、その髪の毛は、白い羊毛に似て、雪のように白く、目はまるで燃え盛る炎、足は炉で精錬されたしんちゅうのように輝き、声は大水のとどろきのようであった。右の手に七つの星を持ち、口からは鋭い双刃の剣が出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった。」黙示録1:13~17

雪のような白髪は罪の汚れの無い仔羊を思わせ、燃えるような目は真理、正義、希望、愛を貫く熱情、双刃の剣は神の言葉・真理、しんちゅうのような足は、もろくない確固たる足取り、美しく輝く福音の足・・・ヨハネが慣れ親しんだキリストと、黙示録のキリストの描写とには雲泥の差が。その変貌ぶりにヨハネは「わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。」ーーー黙示録1:17と記しました。

容姿が変化するので希望があると言っているのではありません。十字架につけられ、人に侮られ軽蔑され見捨てられたキリストの本当の姿が、こんなにも強く権威ある様相を持つオーサムな神なのですから、私たちにも希望があります。あなたが今、試練にあって辛い思いでも決して敗北に終わりません。必ず見事な変身を遂げます。このオーサムな神にあなたは愛されているから勇気満々、勝利に導かれること間違いなしです。

《希望要因3》は、オーサムな神キリストが、人の子時代と変わらない愛をヨハネに示した点です。ヨハネが驚いて倒れた時のこと、「するとその方は右手をわたしの上に置いて言われた。『恐れるな』」ーーー黙示録1:17。ものすごい神が、あなたの側に来て、あなたに触れ「安心しなさい」と声をかけててくださいます。権威ある神をあなたは怖がらなくてよいのです。どんな試練が来ようとも、この万軍の主が右手を、あなたの上に優しくおかれ四六時中、支えています。あなたは弱くても、あなたの神は強靭です。

イザヤ書41:9~10を読みましょう。

わたしはあなたを固くとらえ 地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたはわたしの僕 わたしはあなたを選び、決して見捨てない。恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け わたしの救いの右の手であなたを支える。

黙示録はキリストの権威ある正体を明らかにし、苦しむ者に希望を与えます。そして悪に対するキリストの勝利が決定的に明るみに出される日が必ずやって来ると預言します。さらに天と地は一つとなり、神が人と共に暮らす新しい世界がはじまると啓示。まさに黙示録自体がアルファでありオメガです。

キリスト誕生の約700年前、預言者イザヤはいみじくも次のように記しました。
主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」ーーーイザヤ書2:4
神がおさめられる新しい平和な天地が来るという希望を見つめ、2024年も迷わず信仰の旗印を掲げましょう。
全て主を愛する者、主が守られる。ーーー詩篇145:20