アブラハムが生まれる前から、わたしはある ③
信仰というイエスとの絆をもって想像すれば、これも実に単純な話である。
「アブラハムの生まれる前から、わたしはある」、つまり、「しょせん人間アブラハムなんかにこだわっているお前らなんかに、僕のパパ(神)のことは分からねぇよ」と、時のユダヤ人たちに向かってガキっぽく言い放った、ガキっぽいイエスが、
この時代の私に向かって言いたかったこととは、おおよそ、以下のような事柄である。
すなわち、
冒頭のマトハズレの無限ループのような所には、イエスの霊が住むこともなければ、「キリストの再臨」もけっして起こらない――
「俺はそんな場所には住まないし、そんなところは俺の戻って来るような場所でもねぇよ」――
ということである。
私は、御子イエス・キリストにつながった者として、嘘は言わない。
嘘を言っていない証拠に、
私はこんなことを言っても、「自分に何の得もない」ことを知っている。
自分以外の誰かに信じてもらいたくて言うのならば、もっと上品な言葉遣いをしたはずである。
この世の教会みたいに、一人でも多くの人間に信じてもらいたいなどと思って書いているのならば、神のことを「鬼」だの「悪魔」だの言って批判したりもしない。
こう言ったら信者や支持者が離れていってしまうかもしれないとようなフザケタ遠慮もないし、教会という社会的かつ政治的立場がどうのというヨコシマな配慮もない、まして、こんな言葉を使ってしまったら神から罰せられてしまうかもしれないというような偽善者的臆病風が吹くこともない――だから、あらゆる「嘘」を言う理由がなくなるのである。
それでも私が書いているのは、もっぱら「書け」と言われているからにほかならない。
そして、
勝手に自滅すればいいんだくらいにしか思ってもいない、「愚なる、あまりに愚なるキリスト教的世界」を批判するだけでもめんどくさくて仕方がなかったというのに、なおも私には、言わなければならないことが残っている。
これからそれをここに書いたところで、私にはやはり何の得もない。
おおよそ、このような私にとって一文の得にもならないような作業をば、無報酬にて強制されるから、「誰が自費で戦争に行くのか」という話になるのであり、それゆえに神に向かって「そんなにやりたかったら、てめぇでやれや」と反発したくもなるのである。
だからといって、神は怒って私を罰したりなんかしない。それは、父なる神とわたしが心の底では深く深く愛し合っているからばかりでない――もしも、こんな程度の悪口で怒り狂って罰するような狭量なる神だったなら、私なんか『命をかけた祈り』という文章を書くとうの以前に滅んでいる。
それゆえに、
たとえば、一人でも多くの人間に向かって語りかけたい――だから、テレビやラジオといったツールを駆使した伝道ごっこにいそしんで、「世界でもっとも多くの人間に福音を語った」などとされているとある男の例なんか、マトハズレの回転木馬の最たるところである。
その男は、1948年に建国されたイスラエルという国家を支持していた。あまつさえ、その後くり返された戦争において、イスラエルが勝利したことを歓迎し、それをもって「エルサレムがユダヤ人たちの手に戻ったことを見て、私のように聖書を研究する人々は感激し、聖書の正確性と有効性を再確認したのである」などと述べたそうな。
こういう稀代のトンチンカンに向かってこそ、
イエスは、「アブラハムが生まれる前から、わたしはある」と言うべきだったのではないのか――?
たとえば「世界でもっとも多くの人間に福音を語った」とかいう、その「もっとも多くの」なる考え方からしてがカタハラ痛く、ちゃんちゃらおかしく、ヘソが茶を沸かすようだとしか感ぜられない私なんかに向かってではなく、
「パウロ以来の大伝道師だ」などと持ち上げられて、どんな「福音」を語ったのか知らないが、しょせん血肉の、骨肉の、系図的なユダヤ人たちの手に、エルサレムというたかが地上の一国家の首都が戻ったくらいで、そんな出来事をば「聖書の実現だ」などとのたまって恥もはばかりも知らないような、その程度の「聖書研究」からひり出された「よまい言」など、肉においても、霊においても、糞土ほどの役にも立ちはしない――としか思っていない私なんかに向かってではではなく、
曲がりなりにも、「世界でもっとも多くの人間」にアクセスできたような人間にこそ、「自由をもたらす真理」を伝えればいいものを。…
よくよく断っておくが、
以下の言葉も私が言っているのではなく、もっぱら「書け」と言われたから書いているのである。
アブラハムの子孫とは血肉の、骨肉の、系図的ユダヤ民族のことであるとか、いや、教会でバプテスマを受けたクリスチャンのことであるとか、いや、天職をもって神の栄光を表しているクリスチャンであるとか、いや、聖書をしっかり原語で読んでいるクリスチャンであるとか、いや、血肉の、骨肉の、系図的アブラハムの子孫たるユダヤ民族を支持するクリスチャンのことであるとか――
そんな程度の甘ったれた世界に、「キリストの再臨」はけっして起こらない。
なんどでもくり返して言うが、これは私が言っているのではない――私をして言わしめている「わたしの神」、すなわちイエス・キリストと、イエスを死者の中から復活させた父なる神と、キリストの名によって父なる神から遣わされた聖霊が、そう言っているのである。
だから、文句があるのならば、「アバ父(僕のパパ)」に言え…!
「キリストの再臨」が起こるのは、ユダヤ民族であろうがそうでなかろうが、イエスのような「信仰」を持った人々のところにこそである。
それゆえに、同じ「信仰」を与えられている私は、たとえば『アダムとイエス』という文章の中において、あえてアブラハム以前に存在していたアダムとか、アベルとか、エノクとかいった人物たちが、「信仰」を持っていたことについて述べたのである。
なぜとならば、「信仰」があるかないか――ただそれだけが、アブラハム以前の時代であれ、アブラハム以後の時代であれ、その人間の「キリストのものであるか否か」の”しるし”だからである。
かつて、傷のない子羊の血が過越のしるしであったように、また肉の割礼がこの地上におけるユダヤ人のしるしであったように、キリストの再臨の時には「信仰」こそがその者のキリストのものであるか否かの、たった一つのしるしとなるのである。
もう一度言うが、キリストの再臨の時には、「信仰」ただそれだけがしるしであり、それゆえに、たとえば水槽に沈められただけの教会における洗礼を受けたり、あるいは授けたりしたことがあるかどうかなんて、まったくもってどうだっていい話なのである。
なぜとならば、「信仰」こそはインマヌエルの神、復活したイエス・キリストの霊だからである。
これらについてまだ反論があるのならば、「イエス・キリスト(僕の友だち)」に言え…!
しかしもしも、もしも私の言っていることが分からないならば(そんなことさえ分からないのならば)、
自分ばかりが立派な宮殿に住んでいて、主なる神は幕屋(テント)で暮らしている――これではいけない――と言って、神の神殿を建てようとしたダビデ王に向かって神がなんと答えたのか、もう一度考えてみたらいい。
―― 主(神)が、あなたのために家を建てる ――
これが、主なる神の、僕(しもべ)たるダビデ王へ向かって語られた、回答だった。
もう一度くり返しておくが、
神のために神殿を建てようと思い立った地上の王に向かって、神のかえした返答とは、
―― 主(神)が、あなたのために家を建てる ――
だった。
この「家」とは、「イエス・キリスト」のことである。
それゆえに、
この大変に示唆に富んだあまりに重要なひと言をも、「信仰」をもって――またしてもガキっぽく言ったんじゃないかなどと――想像してみれば、案の定、こんなふうにも翻訳できる。
「おまえ(人間)なんかの手によっては、神の神殿は造れねぇよ」
「俺(神)が住むところは、俺が造った家だけだから」――。
だからこそ、
かつて地上においてイエスは、ユダヤ人たちにむかって、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と言ったのである。
パウロは、上品な言葉をもってこれを翻訳して、
―― キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。――
と書いたが、
くだけにくだけた言葉をもって表現するならば、
「俺は俺が「信仰」を与えた人間のところにしか住まないし、帰っても来ねぇからな」
と言ってるだけですから…!
それゆえに、
ダビデ王という、系図的なアブラハムの子孫の中でももっとも偉大なひとりの人間に向けた回答からかんがみても、
しょせん地上における、しょせん虫けらのような存在にすぎない人間の手の業によって造られたような、いかなる「神の神殿」はもちろんのこと、その神殿を中心にいただく「自称・神の国」なんかには、「キリストの再臨」が起こるワケがないのである。
私はイエス・キリストにつながった者として、こう言っても良い間柄だから言うのであるが、ダビデに与えた回答ひとつを取り上げて見てみても、
神の性格ははなはだ悪い。
だって、たとえ純然たる善意からであれ、混じり気のない誠意からであれ、なんであれ、人間の作った神の神殿、神の家、神の国なんかには、「絶対に住んでやらねぇよ」と言えちゃうのだから、「なんとも良い根性してやがる」というものである。
神はいつもいつでもいつまでも、自分本位であり、自分勝手であり、自分最優先の神なのである。
また別な文章をもって書こうと思っている「わたしは主である」という神の言葉とは、
いつもいつでもいつまでも、「俺(神)こそが主」であって、
いつもいつでもいつまでも、「お前(人間)は従」である――
という意味である。
ここから連想してみたって、「アブラハムの生まれる前から、わたしはある」とは、
「アブラハムなんかどんなハムよ? お前がそんなものの肉の子孫であるかどうかなんて、俺にはどうだっていい話だけど?」
という意味になるのである。
私は、右も左も分からなかった子どもの頃から、神なる存在とは本気と本心と本音をもって、時に取っ組み合いをする親子さながら、時に初夜を迎えた夫婦さながら、あいまみえて来た。
良い子供であるために、良い生徒であるために、良い社会人であるために、良い市民であるために、良い夫であるために、良い親であるために、良い教会員であるために、良いクリスチャンであるために、良い人間であるために、良い神の子であるために――
おおよそ、こんなマトハズレな目的がために聖書を読んだり、教会へ行ったり、アーメンしたり、シャロームしたり、、、そんな愚なる、あまりに愚なる「ごっこ」をば終生続けられるほど、「足らんのーみそ」を授けられたワケではない。
―― 神なんかナニサマよ!?
なんでてめぇが「主」なんだ!?
なんでてめぇみたいなのが「天地の創造主」サマで、
どこがどのように「憐れみの神」で、
こんなガキっぽいイエスがどうしてキリストなんだ!? ――
私はこういった言葉よりも、「はるかに悪い言葉遣い」をもって、「わたしの神」と対峙し、対立し、対決して来た。
いや、たったひとつの命と、自分の人生のすべてをかけて、決闘して来た。
それゆえに、
はっきりとはっきりとはっきりと言っておくが、
それゆえに、それゆえに、私は殺されもせず、呪われもせず、滅ぼされもしなかった。
むしろ、
だからこそ、だからこそ、「ひと粒の麦、もし死なば…」という言葉のとおりに、「信仰」というイエス・キリストと父なる神からの愛情を与えられて来た。
この愛情が、時に私にとって「めんどくさてならない」ものなのだが、それはまた別な文章で。
それゆえに、
イエス・キリストの名によって「書け」と言われるから書くのであるが、
たとえば、贖宥状を発行して、善良なる人々から莫大な金をだまし取ったり、
予定説なる大嘘によって、生真面目な人々を天職という美名の下で搾取したり、
聖書を研究したような錯覚に陥って、キリストの再臨はこの年に起こると預言して山の上に登ってみたところが、ものの見事に外してみせたにも関わらず、いまだ性懲りもなく献金をせしめ続けたり、
世界でもっとも多くの人間に福音を語ったような気になって、系図的なユダヤ人の再興した国なんかに、キリストの再臨が起こるのだと吹聴しながら、莫大な献金をせしめ続けたり、
あるいはただ単に、神学校の課程を修了し、長老先生方から按手をされたので、召しを受けたような気になって、囚われの民のところへ遣わされたエゼキエルにでもなったような気になって、水槽に沈めるだけのバプテスマを授けられればそれが立派な伝道だと思いこんで、当たり前のように「十一献金」をばせしめ続けたり――
おおよそ、このような過去における反省すべき歴史や、現在進行形の恥ずべき組織的活動に比べたら、
これまで私が無報酬で書いて来たような、わたしと神との「幼稚な喧嘩」の方が、
ずっと、ずっと、ずっとイエス・キリストにも、父なる神にも「喜ばれる行い」であるのである。
同様に、
多少、品位に欠ける言葉遣いで書かれていようとも、
聖書とは、原語ではなく、「信仰」をもって読むものだとか、
しょせん本にすぎない聖書よりも、自分の人生という聖書を「信仰」をもって生きることが、神とあいまみえる道だとか、
神の名は「憐れみ深い」だとか、
父なる神は肉なるイエスを憐れんで、死者の中から復活させたのだとか、
インマヌエルのイエス・キリストの霊こそが、神のすべての約束の成就なのだ、とか、
キリストの再臨とは、「信仰」を持った人々のところへ起こるものだとか、
「信仰」とは、イエス・キリストとの絆であり、父なる神からの愛情のことなのだとか、
――そのような、私が無報酬で行っている主張の方が、ずっと、ずっと、ずっと、イエス・キリストにも、父なる神にも、「御心に適った行いである」と全天にむかって宣言してもらえるものなのである。
最後に、余談ではあるが、
自滅の回転木馬に乗っている人々の、ひとつの口癖を書き記しておこう。
それは、「すべては自己責任です」というものである。
自分の主張を聞いてもらえなかった人々に向かってばかりでなく、聞いてもらってなおかつ献金までしてもらった人々に向かって、「聞いたのもあなたの責任、信じたのもあなたの責任、だから起こった結果もすべてあなたの責任です」だなどと、よくぞ言えたものである。
悪徳政治家は税金をせしめて「自己責任」と言い、詐欺師は投資話を持ちかけて金をだまし取って「自己責任」と言い、偽預言者は「福音(っぽいもの)」を宣べ伝えて献金をせしめながら「自己責任」と言う――こんな滅びて当然の悪党どもをば、神はどうして、そして、いつまでのさばらせておく気なんだろうか。
私は、父なる神から「書け」と言われたこと書き、イエス・キリストから「言え」と言われたことを言うだけである。
それゆえに、私の話を聞いたすべての人々に向かって、「自己責任」だなんて言わない。
―― 全責任は神にある ――
当たり前のことである。
神に言えと言われたことを語ったならば、全責任は神にある。もしも神に言われたからではなく、自分の思いや考えを語ったのならば、語った方こそ「自己責任」である。
それゆえに、
「神が責任を取る」からこその「福音」なのであって、「神が責任を取る」と信じるからこその「信仰」なのである。
これをガキっぽいイエス的に翻訳すれば、「僕は僕のパパに言われた通りにやっただけだ。だから何が起こっても僕のパパがなんとかしてくれる、だって僕のパパは誰よりもスゴイし、誰よりも僕のことが好きだから」――というふうになる。
私が右も左も分からなかった頃につかまってしまった神とは、「この程度の神」なのである。
この程度の御子イエス・キリストの、「命を捨てるほどの愛」とは何なのか――それはまた別な文章で書いていこうかと思う。