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喜びの神殿 ④


――
あなたを破壊するものは速やかに来たが
あなたを建てるものはさらに速やかに来る
――



エズラ記やネヘミヤ記は、非常に明確な意図を持って書かれている。

たとえばこの私のように、日本国における最終学歴が小学校卒業といった程度の読解力をもってしても、その意図に「気づく」ことができる。

すなわち、

数ある主の戒めと法と掟の中において、なにゆえに結婚、安息日、十一献物といった部分にことさらに焦点が当てられ、預言書においてもクローズアップされて語られているのか、小卒レベルの学力をもってしても、簡単に「気づく」ことができるのである。

そして、そこに気づくことのできたならば、

当時の中東地域における歴史的知識や、ユダとイスラエルの時代背景やの詳細について、まったくの無知無学無勉強無関心無頓着…であっても、ただただ「信仰」によって、当時の神の御心にも、今の神の御心にも、たどり着くことができるのである。


それゆえに、

冒頭述べたように、私は「気づいた人々」や「たどり着いた人々」に向かってこそ、このような文章を書いている。あるいは、そうしたいと心から願う人々に向かって。

が、今も昔も(そして悲しいかな、これからもずっと)、そのような人々とは圧倒的少数派である。

その明々白々たる証左としても、合わせて二十億だか三十億だか知らないが、現代のユダヤ教だキリスト教だいう世界における人々による、お仲間同士の結婚や、安息日の礼拝、十一献金の体たらくとは、「(外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている)白く塗った墓」という預言のとおりだからである。

だから私はもう一度、わたしの神イエス・キリストに言えと言われたまま、はっきりと言っておく、

エズラやネヘミヤの時代に行われた、神殿再建の目的――すなわち当時の神の御心――とは、捕囚の民の心の復興にこそあった。(余談になるが、先の大戦に敗れた日本国は、経済の復興には成功したが、心の復興にはまったく失敗した――それが「戦後」なるものの正体である。)

であるからして、

「わたしの家に食物があるようにせよ」の「わたしの家」とは、まずもって、預言がなされた当時の、再建された神殿のことであり、

「離婚を憎む」とは、「イスラエルの主なる神に立ち帰れ」という意味にほかならず、

「ヤコブを愛して、エサウを憎んだ」もまた、「神は地上の諸国民の中から、イスラエルを選び分けて、聖別してきた(しようとしてきた)」という神とイスラエルの歴史の要約であった。

このように、預言がなされた当時の言葉の、その真意を悟ることも、踏まえることも、わきまえることも知らぬまま、ただただ「文字」として一生懸命に学校でお勉強しました的な小賢しい浅知恵をもって、だから教会に献金せよとか、離婚届を出すなとか、あげくのはてには、ここはオレ様たちの土地だから出て行けと血で血を洗うような争いを続ける行為など、完全無欠のアホの極み、愚行の極み、罪の極みでしかない。



それゆえに、わたしの神イエス・キリストの父なる神に言えと言われたまま、はっきりと言っておく、

この終わりの時代にあってなお、「神殿再建」の号令をかける、今の神の御心があるとしたら、たったひとつしかない。

すなわち、

神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、 この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました

という言葉のとおり、この終わりの時代における「神殿」とは、とりもなおさず、「イエス・キリスト」のことであり、それ以外のいかなる神殿も、可視不可視のいずれにおいても存在しない――してはならない。

そんな終わりの時代にあって、預言書の「倉」や「わたしの家」やといった文字を切り取って、この時代のお前の教会にすりかえるようなすべての行為とは純然たる「死に至る罪」であり、そのような教会とはおしなべて強盗の巣であり、そこにいる祭司とは一人の例外もなくトビヤの家の者であり、詐欺師であり泥棒であり人殺しであり奴隷商人であり死の商人である。

なぜとならば、この終わりの時代に限らず、今も昔も「わたしの家」とか「神殿」とか「教会」とかいうものとは、永遠に生きるイエス・キリストの霊の宿って来た場所のことであり、永遠に生きるイエス・キリストの霊とは、たとえば石や木を組み合わせたばかりで心血の注がれない建造物や、それらしい研究分析によって組み立てられた宗派だ教義だ神学だのいう小賢しいばかりの屁理屈の中に宿ったり、あるいは押し込めたり、閉じ込めたりできるものではけっしてないからだ。


それでは、今も昔も、永遠に生きるイエス・キリストの霊とは、いったいどこに宿るのだろうか――?

もうなんどとなく書いて来たことと重複するが、

「心の包皮を切り捨てよ」

「何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある」

「主が、あなたのために家を建てる」

「何よりもまず、神の国と神の義を求めよ」

という一連の言葉も示唆するとおり、今を、この時代を、この瞬間を生きようとする人の心にほかならない。

それゆえに、かつての幕屋にせよ神殿にせよ、当代のいかなる教会にせよなんにせよ、おおよそ目に見えるものは偽りのそれか、うつろう影のようなシロモノに過ぎずして、不可視のものこそが真実であり、永遠のものなのである。

当たり前ではないか――だって「唯一の生けるまことの神」とは、いつもいつでも、不可視の神であったのだから。

いつもいつでも不可視であればこそ、いつもいつでも不可視の人の心にこそ、神の家を、真の神殿を、永遠の教会を建てようとして来たし、建て直そうとし続けるのだから…!


だから私は、

たとえば『ソドムとゴモラ』という文章をもって、さながらソドムの地のごとく焼かれ、壊され、奪われ尽くされたかのような私の心をば、素のまま、そのまま、あるがまま、わたしの神の掌に捧げた。(捧げた、というよりも、一握の真っ黒な灰燼をば、わたしの神の顔をめがけて投げつけたと表現した方が正確であるが。)

「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊」

という言葉のとおり、わたしの神は、いたくそれを喜んだ。

ロトやアブラハムといった薄情で臆病な愚物どもとは、破壊された大地を訪って、瓦礫の底に埋もれた、粉々になった自分の心を掘り起こしてみようともしなかった――そのようにして、ソドムの地から逃れた先の土地においてそれぞれ愚かな罪を犯し、後世に災いの火種を残していく様子は、文字(聖書)にも描かれている通りである。

がしかし、この終わりの時代の私は、そんな愚物をなぞらえることなく、自らの身をもって荒廃した我が人生の下をかき分け、我が心の破片を握りしめて、わたしの神に捧げたのである。

それゆえにそれゆえに、

この終わりの時代にあって、私は私の心の再興に成功し、そのような心の中に、わたしの神は神殿を再建してそこに宿り、教会を建て直してそこに留まっているのである。

いわずもがなだが、わたしの神とは「イエス・キリスト」であり、また「イエス・キリストの父なる神」のことである


このようにして、

月並みな人生であろうが、取るに足らない異邦人の若者の私話であろうが、私は私の人生をもって、新たな基礎を据え直し、その身をもって、新しい神殿を再建した。

そのようなたしかな実体験と人生経験があるからこそ、エズラ記でもネヘミヤ記でも、当時の人々、なかんずくエズラやネヘミヤといった生ける信仰を持った人間の、血と汗と涙とが手に取るように分かる。

いや、鶏が先か卵が先か知らないが、我が真の先祖たち、真の兄弟たちの流した血と汗と涙の物語になぞらえたからこそ、後世の、取るに足らない異邦人の若者の心もまた復活し、塵芥のような人生も再建されたのである。

だから、

「文字は殺すが、霊は生かす」という言葉のとおりで、

エズラ記でもネヘミヤ記でもハガイ書でもゼカリヤ書でもマラキ書でも、当時の神殿再建を描いた、その「文字だけをつらまえる」ような愚行を犯せば、やれ教会に献金しろ、やれ週の七日目は教会に行け、やれ教会に通う人としか結婚するな、結婚したら離婚もするなといった、心の復興とも人生の再建ともまったく関係のない、「信仰ごっこ」をくり返すハメに陥るのである。

もう一度くり返すが、そんなすべては「信仰ごっこ」であり、それ以外のナニモノでもありはしない。

それゆえに、

わたしの神イエス・キリストに言えと言われたまま、はっきりと言っておく、

ナザレのイエスを殺したのは、その当時のファリサイ派や律法学者、祭司や長老といったユダヤ人のリーダーたちと、彼らによって扇動された民衆たちであった。

すなわち、当時の人々が属していた「宗派」や、広めていた「神学」、思い込んでいた「教義」といった文字であった。

それはまた、モーセによって律法が与えられて以降、ずっとくり返されて来た、イスラエルによる「預言者の迫害と殺害」のお決まりの構図であった。

それゆえに、この終わりの時代にあっても、合わせて二十億だか三十億だか知らないが、当代の人々が属する宗派、宣べ伝える神学、信じ込んでいる教義こそが、この時代のキリストに聞き従う人々を殺そうとするのである――それがどこまでも病みに病んだ、「罪のパターン」なのだから。

そして私は、

「風は思いのままに吹く」という言葉のとおり、右も左も分からなかった頃から、そのような構図に気づいていた。

それを自他に向かってはっきりと言葉にすることのできなかった頃から、「罪の傾向」を感じ取っていた。

だから私は、おむつとおしゃぶりの取れなかった頃から、自分の町の教会へ行って、あーめん垂れて、はれるやぶっこいていれば、死んだら天国へ行けるなんて与太話を、腹の底から嘲笑って来た。

おむつもおしゃぶりが取れた今に至ってなおいっそう、そんなところにはいかなる真実を見出すこともないし―――そんなもの、あるわけがねぇじゃねぇか…!

なぜとならば、この悩みと苦しみに満ち満ちた人生が、そんなフザケにフザケタお遊戯会で事の済むような話であれば、イエスは十字架にかかって死なずに済んだのだから…!


それゆえに、

わたしの神イエス・キリストの父なる神に言えと言われたまま、はっきりと言っておく、

文字は殺すが、霊は生かす――

いかにゴリッパに文字を読み込んでみせようが、その文字から読み込んだところの献金をつづけ、望ましい結婚をし、望ましくない離婚を我慢しながら、ある特定の民族を積極的に支援してみせようが、そんないっさいは、「人の知恵はすべてかえりみるに値しない」というひと言にしか集約されない、「罪の中の罪」である。

文字は殺すように、罪の支払う報酬は死であり、罪の中の罪の行きつくところは永遠の死でしかない。

さりながら、

冒頭述べたように、私はこんなバカの頂点を極めたバカを、まごころを込めてディスりたいがために、この文章の筆を執ったわけではない。

わたしの神イエス・キリストと父なる神の憐れみによって、いつもいつでも、「やれ」と言われているひとつ事とは、

この終わりの時代にあって、「信仰」によって己の心に神殿を再建させたすべての者と共に、わたしたちの神に対して「奉献」し、それによって「聖別」され、それによって「安息」に入ること、

そのようにして、「主を求めよ、そして生きよ」という言葉のとおりに、「永遠の命に生きる」ことなのだから…!



つづく・・・



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