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復活したイエスは、「ユダヤ人」か?

復活したイエスが、「ユダヤ人」であるワケがない。

もっとも、最初にその姿を現したのは、「ユダヤ人」であったところの弟子たちの前だったかもしれない。

しかし、その弟子たちに現れた「復活したイエス」は、もはや、かつてのような「肉においてはユダヤ人として現れたメシア」などではなかった。

だとしたら、現代の人間が、「聖書」なんかを一生懸命に読み込んで、いったい誰に出会おうというのか。

「ユダヤ人イエス」か? 「復活したイエス」か?

別に前者に出会って、学ぶもののないとは言えまい。出会いたければ、どうぞご勝手に出会ったらよろしい。

ただ、それ以上に「復活したイエス」、すなわち「いま生きている、主なるイエス」に出会わなくて、どうするのだろう?

「いま生きているイエス」よりも、「死んだユダヤ人イエス」なんかに出会おうとして、どうするのだろう?

そんな過去の人、「ユダヤ人イエス」に出会ったくらいで満足して、どうするのだろう?

「ユダヤ人イエス」を通して、「いま生きているイエス」に出会おうとしなかったら、何のための「聖書研究」なのだろう?

それに、「復活したイエス」は、「ユダヤ人イエス」を通してでなければ、出会えない存在なのだろうか? 

そんなはずはない、絶対にない。

もっと言えば、「復活したイエス」は、「聖書」を通してでなければ、出会えない存在なのだろうか?

そんなはずはない、絶対にない。


ここに、聖書も知らず、イエスも知らない知人がいる。

知人は数年前、結婚に失敗した。

結婚には失敗したが、その結果、生まれた子どもについては、「失敗」だとは信じなかった。

ちょっと聞けば「当然のことだ」と思うかもしれない。しかし、「失敗」の結果を「失敗でない」と信じたというこの矛盾を、なかなか面白い話だと、個人的には感じ入った。

友人は、結婚の結果、職を失い、破産した――そうである。

詳しくは教えてくれないので、どういう経緯だったのか、ほとんど知らない。というか、まったく知らない。

しかし、職を失い、財産まで失ったその結果、妻は彼を見捨て、生まれたばかりの子どもを引き連れて、逃げてしまったそうである。

これも、別段、珍しい話ではない。「他人事」として聞いてしまえば、それこそ、どこにでも転がっているような世知辛い世の中における、いわば「世間話」のネタにすぎない。

それでも私は、知人であり、友人であるという理由から、この話を「ネタ」として聞き流すことができなかった。

それからしばらくして、友人は――痩せて、頬もこけて、頭髪もすっかり失ってしまったほど様変わりしていた――私に話してくれた。

「不運と、自業自得の結果、何もかも失った僕だけれども、子どもだけは、守りたいと思ったんだ」

友人は、ある時ふと、そう強く思ったのだという。

そして、その思いに従って、決心したのだという。これからどんな事があっても、子どもだけは、絶対に守ってやるんだ、と。

そう決心し、選択し、心の舵を切った(友人の言葉より)途端に、「道が拓けた」という。まるで嘘のように、夢のように、奇跡のように、次々と、不幸は去り、幸福が向こうからやって来たのだという。

これについても、友人は詳しくは教えてくれなかった。「無名の小説家」の性格的にも、その辺の経緯をこそ、もっとも知りたいと思ったのであったが、話してはくれなかった。

だから、いったい何があったのか――彼にとってどんな不幸が去って、どんな幸福がやって来たというのか――すこしも分からない。素晴らしい職を得たのか、株でも急騰したのか、信じられないような出会いでもあったのか、それこそ宝くじでも引き当てたのか、あるいはその全部なのか、あるいはまたその全部が違うのか――友人の人生の内情を知らない私には、ここに書きたくとも、一行も書けないのである。

しかし、もし友人が詳しく、事細かに話してくれていたとしても、私は書かなかったかもしれない。

なぜとならば、私も友人も意見のぴったり一致している所が、「何があったか、それは実はたいして重要ではない」というものだから。(余談だが、聖書のヨブ記にしても、苦難を経た後のヨブが、その後どうやって「二倍にして祝福された」のか、詳しいことは書かれていない。)

それよりも、「あの時どういう選択をし、どんな決断を下したのか」――その結果としてなのか、単なる偶然なのか、あるいは必然なのか、判然とはしないながらも、「道が拓けた」ということなのである。

二つに分かれた道を前にして、人はどちらへ進むことも許されている。どちらへ進んでも、後になってそれが運命だったと言うことまで、許されている。運命は人に対して二つの道を用意するように、それぞれの答えをも用意する。同じ運命が別の答えを用意して、決断を待つ。だから人の問題はいつでも、選択の問題なのだ。

友人曰く、「俺は俺ひとりの身さえ生かしてやれることもできそうにない」と「絶望した夜」に、「自分は絶対に子どもを救ってやるのだ」という決心をしたのだという。

論理的でもなく、合理的でもなく、現実的でもなく、具体的でもない――まるでまるで、まったくもって、達成可能な道筋もそこになく、かすかな希望も、かそけき光の欠片も、自分の見つめた闇の先には無かったという。

それでも、「自分の子どもは失敗なんかではない。絶対に生かしてやるのだ」という妄念にも似た決心をしたのだという。これは私が勝手に思うことだが、この決断は、この友人が「本気で命をかけて行った選択」であり、後にも先にも、この時だけだったのではなかろうかと。

つい先日のことだったが、ふたたび友人と話す機会に恵まれた。そして、聞いたところには、彼の子どもには、障がいがあったという。そして、それを知った彼の元妻は、彼の方へ、子どもをゆずったのだという。

これについても、詳しい経緯は分からない。

知っているのは、友人は、障がいを持った我が子を、心から愛しており、今、その子どもと二人で、とても幸せそうに暮らしている、ということだ。

もちろん、自分の選択がもたらした「障がい児を育てる」という苦しみを引き受けて、生きているのだ。それは、「選択によってもたらされた結果」であり、何人も逃れられるものではないのだから。

しかし今、かつてすべてを失った(ように見えた)友人は、そんな新しい苦しみを得て、喜んでいる。少なくとも、私にはそのように見える。「道が拓けた」から喜んでいる(という側面もあろうが)というよりも、「子どもを守る」という日々を、喜んでいるのである。

彼は私に言った。

「いっときは、殺してやりたいと思ったほど憎んだ妻にも、今は感謝している。この子を産んでくれたのは、妻だから。妻も、妻がもたらした不幸も、自分のすべての失敗も、すべて、この子に繋がっていた。そう思うと、感謝しかないんだ」と。


さて、こんな話も、よくある話といえば、よくある話なのかもしれない。

こういう珍しくもない世間の噂話なんぞに、冒頭の「復活したイエス」や「いま生きているイエス」を結びつけることは、「聖書」を読み解いたいようなふりをしている「自称レビ人」なんかにも、できることである。というか、彼らがよくやりそうなやり口でもある。

この私にだって、できなくもない。たとえば、神は結婚という「失敗」をも益に変えて、「子ども」という素晴らしい贈り物をあらかじめ友人に対して与えていた。それによって、友人が絶望した時にも、あらかじめ「子ども」という生きる理由、生き延びる目的を、与えながら、友人の決断を待っていたのだ…などというふうに。

しかし、私は、そんな「語り口」になど、まるで興味がない。

それに私は、友人の唇から紡がれた身の上話を、耳で聞いただけで、実際にその子どもに会ったこともなく、元妻も知らず、その友人の話が「本当なのか」どうかも、知らないのである。ただ、嘘はついていないだろうと、思われるばかりである。

だから、ここで私がもっとも強調したいことは、ひとつだけである。

この友人は、神も知らず、聖書も読んだこともなく、おそらく「ユダヤ人イエス」も「復活したイエス」も知らないだろう、ということである。(もちろん、これも、私の友人に対する知識の範囲から言うことであって、実際のところは分からないのだが…。)

にもかかわらず、「復活したイエス」に出会った者として、いま真っ先に、私の心に浮かんで来る人物といえば、マグダラのマリアでもなく、熱血漢のペテロでもなく、イエスに愛された弟子なるヨハネでもなく、この障がい児の父たる友人なのである。

どうして?

その友人に訊ねてみたからだ。

「君が「子どもだけは絶対に守るんだ」って思った時、なにか、キッカケがあったのかい?」

「ああ、スーパーマーケットを歩いていたらさ、子どもの泣き声がしたんだよ…。その時、僕は、まるで心が引き裂かれるような気がしたんだ。子どもが泣いている…僕の子どもが泣いている…そんなふうに思ったわけじゃないんだけど…思わず涙が出そうになったんだ。僕はその時、耳をふさいで、その場から逃げることもできた。僕には子どもを捨てる選択もできたんだ。でも、それをしたら、僕はこれからもずっと、子どもが泣く声を耳にするたびに、心が引き裂かれるんだ…そう思ったらさ……どうしても、我慢できそうになかった。そんな人生に、我慢できそうになかったんだ……キッカケっていうなら、あれがそうなんだろうな…」

無名の小説家として、その時の友人の心理作用を、まことしやかに書き連ねていくことはできる。

その当時の友人の人生を想像して、なにがしか象徴的な、転換的なイベントを挟み込ませて、人間の心理など一文たりとも描写せずとも、「見えざる手」をばさも偶然っぽく、あるいはその逆の必然っぽく描き出すこともできる。

この友人の話を題材にして、詩的な韻文でも、冷徹な散文でも、やろうと思えば、いくらでも書いてみせることだってできる。

しかし、そんな不毛な作業には、興味がない。いつか興味を抱くかもしれないが、今ははっきり言って、どうだっていい。

ただ、友人のために、友人のように自分もまた、喜びたいだけである。

私の友人は、その人生をもって「神の声を聞き」、その身をもって「復活したイエス」に出会ったのだと、そう思っている。

良かった。

「子どもの泣き声」に「耳をふさがなかった」友人を、この世の誰もよりも、褒めたたえたい。

神が与えし「絶望の夜」に、自ら死ぬことを選ぶことなく、「子どもだけは絶対に守る」という選択をした友人を、褒めて褒めて、褒めて褒めて、祝福したい。

たとえすべてが偶然だったとしても、そんな真実なんか、はっきり言って、どうだっていい。

ただただ、良かった。

彼が生きてくれて、良かった。今、喜んでくれていて、良かった。本当に良かった。

我が友人の身の上に起こった出来事を、まるで自分のことのように喜び、そういう喜びに酔い、歌い、踊りたいと思うばかりである。


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