棘と愛 ④
――
そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
――
それゆえに、
これまでくどくどと書き連ねて来たことを、くだけにくだけた言葉をもってまとめると、以下のようになる。
イエス・キリストは、私の青春をめちゃくちゃにし、私の身も心もぼろぼろにした。
だから私は、イエス・キリストを思い切りぶん殴ってやりたい。
しかしめちゃくちゃにされ、ぼろぼろにされることによってこそ、私は守られて来た。
あらゆる嘘や、あらゆる恐れをまき散らす偽教師、偽預言者、偽りのユダヤ人たちのくもの巣から、守られて来た。
なぜとならば、この世の教会やクリスチャンなどいう世界には、インマヌエルのイエス・キリストは住んでおらず、
むしろ人を恐怖に陥れ、人を奴隷にするような悪霊ばかりが棲みついていたからだ。
だからイエス・キリストは、私を荒野に連れ去った。
ふたりぼっちの旅路の中で、神の言葉を食べさせた。
神の言葉とは、イエス・キリストの心であった。
それも、
この世のだれよりも、ぼくはおまえのことが好き――
ずっと一緒にいたいと思うほど、ぼくはおまえが好き――
という、イエス・キリストという神のわたしに対する「永遠の恋慕」であった。
…
いちばん始めに言っておいたことだが、
私はここで筆を置きたい。
私はこのようにして、偽預言者たちの「卵」や、偽りのユダヤ人たちの「くもの巣」から自分の心を守り抜いて来た。
イエス・キリストの恋慕に付き合うことで、私は自分の心を守り抜くことを習い覚えて来た。
自分の心を守り抜いた私は、自分の生活をも守り抜いて来た。
だから、それで終わりでいいじゃないか。
自分の生活を守り抜くこととは、
冒頭の、「自分の置かれた境遇に満足すること」のことである。
かつてパウロという名のひとりの愚直な男がそれを習い覚えたように、この終わりの時代にあって、私もまた同様のことを習い覚えたのである。
かの世界にいったいどんな「生活」があるのか、知る由もないが、この世界における生活に満足することを知らない者が、どうしてかの世界においてそれを知るだろう。
私は習い覚えて来た――貧しい時に忍耐するすべも、豊かな時に欲張りすぎないすべも。いまも、いままでも、そしてこれからも――。
だからもう、それでいいじゃないか。
「いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっている」私に、ほかに何が要るというのだろう?
もう一度言っておくが、私にはいっさいの興味がない。
「わたしたちの国籍は天にある」がゆえに、
しょせん196の国連加盟国の内の一つにすぎないイスラエル国になど、いっさいの興味がない。
「わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」という言葉の「その人」が、「神の神殿」であるところの私であると知っているがゆえに、
しょせん地上の、人の手が造った木や石の塊にすぎないエルサレムの神殿になど、いっさいの興味がない。
「ぼくはおまえがいちばん好き」という言葉の「ぼく」とは「復活したイエス・キリスト」であり、「おまえ」とは「わたし」であることを、自分の心と生活という聖書をもって知らされて来たがために、
いかなる民族的な神にも、いかなるキリスト教的な神にも、いかなる宗派や教義の神にも、いかなる共同体や集会の神にも、いかなる終末や患難の神にも、いっさいの興味がないのである。
「貧しくても利口な少年の方が、老いて愚かになり忠告を入れなくなった王よりも良い」という言葉のとおりに、
たとえアカシヤ材で造られた掘っ建て小屋にすぎずとも、主なる神がそこにたしかに宿っていた「幕屋」の方が、
たとえレバノン杉で造られた大建造物であろうとも、もはや主なる神がそこに宿らなくなった「神殿」なんかよりも、はるかに幸いである。
同様に、
血肉の、骨肉の、系図的なユダヤ民族であるというだけの人よりも、
生まれながらの異邦人でありながらも、「内面がユダヤ人である」人の方が、はるかに幸いである。
同様に、
たとえ千の数千倍、万の数万倍の信者の数を誇る宗派や教義であろうとも、インマヌエルのイエス・キリストが宿ってもいない教会よりも、
たとえ全世界でたったひとりぼっちの、虫けらのような一匹の人間であっても、インマヌエルのイエス・キリストがたしかに住んでいる「人の心」の方がはるかに、はるかに、はるかに幸いである。
私はそれを知っている。
ほかならぬ自分の心と体と生活をもって、その「幸い」を知っているから、
私にはなんの恐れもない。
そうだ――
私にはいっさいの「恐れ」がない。
「完全な愛は恐れをしめ出す」という言葉のとおりに――!
いっさいの恐れのない生活こそ、
イエス・キリストによって守られている生活である。
イエスがキリストであることの証拠とは、
いっさいの恐れのない生活のことであり、
これがすなわち「永遠の命」なのである。
たとえ取るに足らないものにすぎずとも、ちっぽけな、あまりにちっぽけな自分の人生にすぎずとも、
わたしの目睫に横たわる生活に深く根づいた、たしかな知恵と力――この気高さと美しさとが、キリストはイエスであるという確証なのだ。
それゆえに、
戦争がなんだ、患難がなんだ、終末がなんだ――そんないっさいが、いったいなんだというのか。
そんなものの只中にあっても、私には私の生活があるばかりである。
携挙だろうが、なんだろうが、私は「わたしの神、イエス・キリストの再臨」を、自分の信仰生活の中で待てばいいことを知っている。
若き日より身も心も生活もあまたの血によって染められながらも、私は「完全な愛は恐れをしめ出す」ということを、習い覚えて来たのである。
わたしはわたしの信仰を守り、わたしの戦いを戦い抜いた――インマヌエルのイエス・キリストと共に。
だから、もういいじゃないか――ここで筆を置いたって――。
――ああ、私は「わたしの神」に感謝せずにはいられない。
それでも――
それでもなおイエス・キリストは、私に「ひとつの棘」を与えた。
そして、私はこの「棘」の意味するところを知っている。
「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」
私にはいっさいの恐れがないように、
「愛」がどこにあるのかも知っている。
「愛」はどこで表現されたり、表現したりするものであるのかを知っている。
それは、
宗派か、教義か、共同体か――?
詩か、神秘か、黙示か――?
神殿か、国か、民族か――?
そんなすべてのものよりも、
「愛」とはただひとえに「人生」というせちがらい日常に横たわった、ちっぽけな、取るに足らない、どうでもいいような「生活」の中でこそ表現したり、されたりするのである。
それゆえに、
イエス・キリストは、私に「ひとつの棘」を与えた。
しかししかし、
その「棘」のなんであるのか、私はここで語るほどもはや愚直でもなく、若くもない。
いったい戦争に行く前に、誰が敵に向かって自分の弱点を教えたりするだろうか。
私は、棘が心のためであり、生活のためであることを知っている。
心と生活のための棘ならば、「愛」のための棘であることを知る。
そして、
私のためには、「愛」とはある「ひとつ事」を指し示している。
少なくとも、私のこれからの生活のためにはその「ひとつ事」こそが、「愛」なのでである。
それゆえに、
もしも私がそれにむかって「愛」を表現できないのであれば、
たとえ私がこの人生を通じて「インマヌエルのイエス・キリスト」を体現できたとしても、まったく無に等しい、
あらゆる「イエス・キリストの黙示」をば与えられて、それらを表現し、体現しえたとしても、私には何の益もない。
ああ、かつて若き日々に「荒野の旅」を苦しみ歩いたように、
私は終生、この「棘」のために悩み苦しむことになるのだろうか――。
文句なしの裁きの山であるシナイ山に登らねば、
文句なしの憐れみ山であるネボ山にも登ることができなかったように、
文句なしの「棘」の痛みに耐えなければ、
文句なしの「愛の力」を習い覚えることもできないに違いない――。
しかし、それがなんであろう。
私にはなんの恐れもない。
私はすでに知っている――
「わたしの神、インマヌエルのイエス・キリスト」において確信している――
私の人生に与えられた「棘」を通して、「イエス・キリストの愛」が表現され、
私が私の心と体と生活をもって「イエス・キリストの愛」を表現するということを。
かつて青春の日々をめちゃくちゃにされたその報酬として、霊なるわたしに与えられたものは「永遠の命」であったように、
肉なる私に与えられたものとは、「棘」であった。
「棘」は「愛」に機会を与え、「愛」は「棘」に打ち勝つのである――いや、すでに打ち勝っていることを、信仰によって私は知る。
「棘」は、我が青春の日々が完全に終わったという「しるし」であり、
それはまた、新たな生活が始まったという「しるし」であった。
新たな生活――それは、かの「永遠の時代」へとつづく道である。
その道を照らす唯一の光が、「愛」なのである。
追記:
この文章に対する回答が、『あなたへ』である。
それは、神のわたしに対する回答であると同時に、わたしの神に対する回答でもある。
またそして、わたしの、わたしの真友に向けたせいいっぱいのラブレターのようなものでもある。
令和五年 九月十八日
無名の小説家