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命をかけた祈り

「イエス・キリストにおいて、神のすべての約束は、然りとなった」

という聖書の言葉は、真実である。

それが、「キリストの福音」である。「永遠の命」である。「真の約束の地」である。

アブラハムへの約束も、モーセへの約束も、ダビデへの約束も――そしてアダム(人間)への約束も、

すべてすべてすべて、イエス・キリストにおいて、「然り」となったのである。


イエス・キリストの名は、「インマヌエル」である。

インマヌエルとは、「神が共にいる」という意味である。

すなわち、「神が共にいる」ということが、ほかでもない、神の約束のことごとく「然り」となったという意味なのである。

神が共にいる――それが「キリストの福音」であり、「約束の成就」であり、「永遠の命」であり、「真の約束の地」なのである。

なぜとならば、

復活したイエス・キリストの霊が、いつもいつでもいつまでも、わたしと共にいてくれる――

この「インマヌエル」以上の、神の約束の実現が、あるというのだろうか?

憐れみ深い父なる神の霊が、いつもいつでもいつまでも、わたしと共に住んでくれる――

これ以上の、神の約束の成就が、この世にどこにあるというのだろうか?

もしもあるというのならば、どうかどうか、その者の憐れみによって、ここに教え、表し、指し示してほしい。

もしもそれの真実ならば、私は喜んでそちらへ乗り換えよう。そちらの方の「約束の地」へ、大手を振るって移住しよう。そして、そうすることによって、わたしはわたしがイエス・キリストから切り離されて、父なる神から見捨てられた者となったとしても、いっこうに構わない。



それと同様に、

アブラハムの子孫とは、キリストのことである

という私の主張が、もしも間違っているというのならば――

そしてもしも、

アブラハムの子孫とは、生まれながらの、血肉の、系図的なユダヤ民族のことである、

などいうバカな、ムチな、モーマイな、トンチンカンな、マトハズレな主張こそが真実であるというのならば――

どうかどうか、聖書の言葉になぞらえて、

神が幾重にも私を罰してくださいますように。



それと同様に、

もしももしも、1948年のイスラエルの建国が、そしてその後くり返された戦争におけるイスラエル国の勝利が、「聖書の実現」だったとしても、そんなものは「キリストの福音」でもなんでもない。

神の約束は、イエス・キリストにおいてのみ、ことごとく「然り」となったのであり、

イエス・キリストは、十字架において、この世のすべての人間の罪のために死に、

三日目に死者の中から復活し、

命を与える霊として、

「極めて良い神の国」を受け継ぐ者の保証として、

その者の内に住まう「インマヌエルの神」となったのである。

そのような、イエス・キリストよりも、

イスラエルなどいう地上の一国家ごときが、「アブラハム契約」の成就だというのならば、

どうかどうか、神が私の命を取ってくださるように。今すぐにでも。



それと同様に、

1945年の夏、私の同胞は原子爆弾によって焼き殺された――

黒い雨によって、身体を内部から侵食され、ぐちゃぐちゃに破壊されて、殺された――

原子爆弾を、地上の軍事基地でもなく、海上の要塞でもなく、いかなる軍事関連施設の上にでもなく、

生身の、血肉の、裸身の人間の上に落とすことを「政治的会談」によって決定をくだした、フランクリン・ルーズベルトとウィンストン・チャーチルとは、永遠の火によって焼かれるべき悪魔の三下である。

ルーズベルトやチャーチルやその取り巻きたちとは、まるで食卓の上からこぼれ落ちたようなささやかな神の憐れみを受けるにも値しない、むしろ神の矢に射られ、怒りの炎によって、なめくじのように溶けてしまえばよい、なめくじよりも劣等にして汚らわしき悪魔の妾である。

――このような私の言葉が耳を洗いたくなるような暴言であり、許すべからざる罪であるというのならば、

私が「わたしの神」に「復讐」を祈り求めているように、

お前も「おまえの神」にむかって、訴えてみろ。

そして、公義と正義の神の裁きによって、私を滅ぼしてみろ。今すぐにでも。なぜとならば、神によって滅されることでしか、私を黙らせることなどなんぴとにも絶対にできはしないから。



それと同様に、

私は「わたしの神」にむかって、原子爆弾によって焼き殺されたすべての同胞のために、神の「憐れみ」を祈りつづけよう。

生きている者にも、死んでしまった者にも、慈しみを惜しまれない「わたしの神」が、こういう私の祈りをすでに聞き入れたことを、私は信仰によって知っている。

私はたしかにたしかに「生きている者」であり、「死んだ者」ではない。

なぜとならば、私の霊は、血肉は、インマヌエルのキリストの命によって生かされており、その「命」によってこそ、殺された同胞のために、神の「憐れみ」を祈り求めるからである。

私はモーセが、ピスガ山の頂にあって、荒野の旅路で死んでしまったすべての同胞のために、イエスにむかって「憐れみ」を祈り求めたことを――そんなことはひと言も聖書に書かれていないが――信仰によって、この目で「見て」、知っている。

そういうモーセの「とりなしの祈り」が、憐れみ深い父なる神に聞き入れられたことも、信仰によって、知っている。

聖書とは、原語をもって読むのではない。信仰という「聖霊」によって、読むのである。「神の霊以外に神のことを知る者はいない」という、聖書の言葉通りである。

それゆえに、私は、まるで今の私のように、モーセがピスガの山頂で荒野の旅路で倒れた数えきれない民のために、神に祈ったことを「知っている」のである。

もしも、モーセがそんなことをしてないというのであれば、モーセなど、ひっきょう無名の異邦人たる私にすらはるかに劣る、イスラエルの偉大なる指導者だったということだ。もしもモーセが倒れた民のために祈っていないのならば、「憐れみは裁きに打ち勝つ」という神の本質を知ることもなかった、無価値な預言者にすぎなかったということである。

もしもモーセが、そんなことはしていない、そんな祈りもとりなしもすることもなく、神はそんな祈りをば聞き入れてもいない――なぜなら、そのような事柄はいっさい聖書に書かれていないから――というのが真実であれば、

そんな程度の人物になどいささかの関心もわかないように、そんな程度の預言者が信じた神になんか、なんの期待もできはしない。

そんな神からは切り離されて、見捨てられてしまっても、むしろ本望である。



それと同様に、

わずか数十年の話でしかない人の一生など、虫けらのそれと、まったく変わりがない。

この地上に生きる限りは、どこにいて、なにをしていようとも、来る日も来る日も、まるで生きるに値しないような「荒野」をさすらっているのである。

四十年の荒野の旅がとてつもない「遠回り」だったように、この世に生を受けたことそれ自体が、はてしもないような「遠回り」なのである。アダムが善悪を知る木の実を食べてしまったその瞬間から、血と涙と恥辱にまみれた「遠回り」の宿命を、あらゆる人間は背負ってしまったのである。

しかし私は、信仰によって、知っている。

そんな憐れましき「遠回り」こそが、虫けらのような人間の一生にほかならず、あきれるほどに埒も際限もないような「遠回り」こそが、「わたしの神」と邂逅する、ただひとつの「旅路」なのだと。

私は、信仰によって、知っている

わたしの「遠回り」の中で、インマヌエルの神はいつもいつでも、わたしと共にいてくれた。そんなわたしのすべての「遠回り」こそ、ほかならぬ、神の「憐れみ」であったのだ、と。

それゆえに、

神はその憐れみによって、幼き私を「行く価値のない教会」に行かせ、「学ぶ価値のない神学」を学ばせ、「同意する価値のない教義」に邂逅させ、「出会う価値のないクリスチャンたち」と交わりを持たせた。

そんないっさいの「無価値なるもの」の中に、私の探し求めた「インマヌエルの神」はいなかった。だから「遠回り」なのである。

ヘブライ語も、定めの祭りも、食べ物の規定も、その他ユダヤ的なるいかなる要素についても、「教会のバプテスマ」のように、無価値なものにすぎないことを、私はこの身をもって体験し、経験し、知り、味わった。そんなすべてが「やがて来るものの影」にすぎず、「切り傷にすぎない肉の割礼」にほかならなかった。だから「遠回り」なのである。

たったいま、ここで私が行っているような、「命をかけた祈り」をば、そのたったひとつの命をもって、血肉をもって、人生をもって、神にむかって行っている人間になど、たとえばこの世の「教会」なんかで出会ったことはただの一度もない。だから、「遠回り」なのである。

もしも、私のこのような追憶と述懐の間違っているのならば、今日以降、もう二度と、いかなる文章をば書けなくなってしまってもよい。



それと同様に、

これからも、たとえ「遠回り」ばかりに明け暮れながらも、そのために「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫びながら血反吐を吐き散らし、血の涙を垂れ流すはめになったとしても、私の人生は最高に充実した、佳美しき日々のくり返されることになるに違いない。

もしももしも、明日の夜明けを待つことなくこの命が尽きたところで、私は戦いを立派に戦い抜き、走りぬくべき行程を走り尽くし、信仰を守りぬいたのだと、あとはただ義の冠を授けてもらうばかりなのだと、――「父よ、我が霊を御手にゆだねます」と祈りながら、いかなる天の御使いにも揺るがし得ない確信を持って、神を賛美しつつ、眠りにつけるだろう。

それもすべて、「わたしの神」に出会ったからである。

それもすべてすべて、この目をもって、復活したイエス・キリストを仰ぎ見、この身をもって、憐れみ深い父なる神にあいまみえることができたからである。

それ以上の生きがいがあるだろうか。

わたしの神を知る以上の幸福な真理があるだろうか。

インマヌエルのイエス・キリストと、憐れみ深い父なる神とあいまみえる以上の「走るべき道」があるだろうか。

以上のような、いっさいのわたしの祈りが、すべて、なべて、おしなべて、間違っているというのならば、

信仰という神の霊が、わたしの内に住んでいないというのならば、

わたしの霊が、神の憐れみの霊である「聖霊」に満たされて祈っていないというのならば、

どうかどうか――そんなわたしの命になど、なんの未練もありはしない――明日の朝まだき、イエス・キリストから切り離されて、父なる神から見捨てられ、そんなふうにして、わたしの神がわたしの命を取り去ってくださいますように。

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