雨あがりて
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わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。
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神を信じるのに、聖書も教会も必須ではない。
必須だと主張してやまない輩とは、聖書や教会でビジネスを営んでいる偽善者の類か、正真正銘のバカである。
そして、偽物はどこまでいっても偽物であり、バカはバカでしかないのである。
わたしの神イエス・キリストと父なる神に言えと言われたまま、もう一度、はっきりと言っておく、
神を信じるのに、聖書も教会も、絶対不可欠ではない。
そんなものの影も形も無かった時代から、神は人に働きかけ、信仰によって人は神を信じていた。
信仰とは、今も昔も永遠に生きる神の霊のことであり、この”命の霊”となるためにこそ、イエスはかつて十字架にかかって死に、父なる神の憐れみによって復活させられたのである。
私はかかる当たり前のことを、当たり前に知る人間である。
そして、こんな当たり前の事をば、私は私以外の口からついぞ聞いたこともなければ、私以外の筆で読んだためしもない。
これもまた、当然である。
なぜとならば、この世のユダヤ教だのキリスト教だの宗派だの教義だの神学だの教会だのいう世界にたかっている手合いどもは、すべてなべておしなべて、それによって「飯を食っている」詐欺師やペテン師や強盗や人殺しやの末裔であるからである。
つまりは、もしも「イエスはキリストであり、キリストはイエスであるという真理を知らしめるのは、教会でもなければ聖書でもない――”イエス・キリストの生きる霊”である」という真実に辿りついたとしても、
彼らは毎月の請求書を支払うがために、うなじを固くして、己の行いを悔い改めることもなければ、神に立ち帰ることもけっしてない――すなわち、バカはどこまでいっても教会であーめんし、偽預言者は死ぬまで無意味にして毒性の教会のバプテスマを売りさばきつづけるのである。
これが、とりもなおさず、「罪」の様相である。
毎月の請求書ばかりでない。
彼らはただひたすら私腹を肥やすがためにこそ、積極的に政治に介入し、経済を裏から混乱させ、社会に恐れと不安をまき散らし続ける「勢力」と手を取り合っては、 今日もまた「バビロン」において奴隷の売買にいそしんでいる――意識、認識、自覚の有無を問わずして。
これが、「偽りのユダヤ人たち」の悪事の様相である。
海辺の砂のような「純然たるバカ」によって、「偽りのユダヤ人たち」は肥え太り、「バビロン」は富み栄えて、「人が人を支配する」体制を確立しようとする。
これこそ、「天上の悪の霊」の目的なのである。
がしかし、
わたしの神イエス・キリストと父なる神に言えと言われたまま、はっきりと言っておく、
バカはしょせんバカであり、
偽物はひっきょう偽物であり、
バビロンはとどのつまり人の集まりにすぎずして、
人はどこまでいっても「人」でしかないように、
「人」はけっしてけっして「神」にはなれない、
「神」以外で「神」になれる者など、ただのひとりもいはしない。
わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる――
私は、イエスの語ったこの言葉を、ほかならぬ自分の身と、自分の人生をもって知った人間である。
今なおをもって、誠心誠意、己が全身全霊において味わい続けている。
だから、私はバカでもなく、偽物でもありはしない――これついては、わたしの神イエス・キリストと父なる神とがわたしに与えた”神の憐れみの霊”によって保証されている。
その同じ”霊”によって、私は言う。
すなわち、イエスとは神に見捨てられた人の子である、と。
このひとつの、けっして争えない真実に、己の身と人生をもってたどり着いた生身の人間に、私は私以外にいまだ出会ったためしがない。
出会ったためしがないから、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」や「父よ、我が霊を御手にゆだねます」をこそ、この地上にイエスが残した言葉の中でもっとも重要なものだとした文章を、私以外の人間のしたためたものの中でついぞ読んだこともなければ、耳にしたこともないのである。
それゆえに、
ここにあらためて、わたしの神イエス・キリストと父なる神に言えと言われたままに、はっきりと言っておく、
イエスは父なる神に見捨てられた子なる神である――
この真実について、自分の身と、自分の人生とをもって知らない者とは、イエス・キリストのものでもなく、父なる神のものでもない。
その者は、からし種ひと粒ほどの信仰も与えられておらず、その内にイエス・キリストの名によって遣わされた”聖霊”が宿っていることもない。
その者がその者のいかなる偉業功績成功の類を誇ってみせていようとも、彼の内には真実なこと、気高いこと、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、名誉なこと、また、徳や称賛に値すること、心に留めるべきことなど、ただのひとつもありはしない――
もう一度、はっきりと言っておくが、ただのひとつも、けっしてけっしてありはしない、
なぜとならば、
すべて真実なこと、すべて気高いこと、、、とは、ただのひとつの例外もなく、永遠に生きる神から来るものだからである。
もう一度、わたしの神イエス・キリストと父なる神に言えと言われたまま、はっきりと言っておく、
イエスは父なる神に見捨てられた子なる神である――
そして、
同じイエスは父なる神の憐れみによって死者の中から復活させられた人の子である――
それゆえに、
イエスはキリストであり、キリストはイエスなのである――。
この言葉を聞いて、たちどころにピンと来る人間など、この世のユダヤ教だのキリスト教だの宗派だの教義だの神学だの教会だのいう世界には、一人もない、ただの一人もいはしない。
ピンと来るとは、肌で知っているという意味であり、肌以上に、”霊”をもって知っているという意味である。
さながら蜘蛛のごとくはり巡らされた巷の教会なんぞには、そんな”霊”は宿っていはしない。
もしも宿っているならば、肉の割礼よりも無意味にして毒性の、ガキの水遊びにも見劣る「教会のバプテスマ」なんぞをもって、この世でもっとも恥ずべきビジネスにいそしみながら、おまんまを食べたりしないはずである。
巷の教会はもとより、たとえば世界でもっとも多くの人間に福音を語ったなどとされている世紀のペテン師や、その取り巻きたちのあいだにおいてはなおさらのこと、たとえ天地がびっくり返っても、”イエス・キリストの生きる霊”を見出すことなどありはしない。
見出せるものといったら、ユダヤ万歳とかイスラエル最高とかいった種類の、完全無欠のマトハズレばかりである。
もしも”キリストを死者の中から復活させた父なる神の霊”が宿っているならば、そんな豚の寝言にも如かない世紀の世迷言によって、この世でもっとも多くの人間に詐欺を働いたりなど、絶対にできないはずである。
だからあらためて、
わたしの神イエス・キリストと父なる神に言えと言われたままに、はっきりと言っておく、
イエス・キリストの道とは、神に見捨てられる道である――と。
この言葉を聞いて、ピンと来る人間だけが、イエス・キリストのものであり、父なる神の霊が宿る者であり、イエスの友であり、私の兄弟でもあるのである。
ピンと来る人間ならば、
イエス・キリストの命(復活)とは、この世のユダヤ教とかキリスト教とか宗派とか教義とか神学とか、教会とか教会の礼拝とか教会のバプテスマとか、、そんな先祖の始めた悪事の仕上げにいそしむ世界からは、完全にかけ離れた世界の「出来事」であると、知っているはずである。
すなわち、イエス・キリストの十字架を背負い――つまりは、いわれのない不幸や痛みや苦しみやにみまわれて――「エロイ、エロイ、、」と血の咆哮を叫び上げ、同じ唇で「父よ、我が霊を御手に、、」とつぶやくことが、
イエス・キリストの道であり、死であり、命であり、そして復活なのである。
がしかし、
そのような、神に見捨てられるような体験を、誰がしたいと思うだろうか――
たとえば、ヨブのような苦しみを、誰がみずから望んだりするであろうか――
もとい、ヨブなんかよりも、イエス自身が経なければならなかったような十字架の死を、いったい、誰が、ほかならぬ自分の人生において、たったひとつの自分の身をもって、経験したいと希うだろうか…!
それでも、
それでもなお、
イエスと共に十字架にかかること――
これこそが、「わたしは道であり、真理であり、命である」という言葉に込められた真意である。
違うというならば、今日もまた、お前の町の目抜き通りにそびえ立った「キリスト教会」に通いつめて、アーメンごっこに、ハレルヤごっこに、バプテスマごっこにと明け暮れたらいい。わたしの神イエス・キリストと父なる神に言えと言われたままにはっきりと言っておくが、そんな先祖の始めた悪事の完成を急ぐ世界など、すでにもって裁かれている。
たとえちっぽけであろうとも、狭小で矮小で狭窄であろうとも、己の人生という井の中で起こる「日々の出来事」の中にあってこそ、人はイエス・キリストの十字架の道を歩むのである。
己の身という器以外で、どうして、神から見捨てられる苦しみや、完全無欠の絶望や、それでもなお神を信じようとする希望の信仰を、体験できよう。
まして、その希望が、今にも吹き消されてしまいそうなかそけき希望が――一円にもならないような無益な真実を喜ぶような狂おしき信仰が――まさかまさか、山を動かし、海を割き、雨を降らせ、死者を復活させるような圧倒的な出来事に、感動的な未来に、真実の夢と希望の結論に、、繋がっていたなんて…!
それゆえに、
「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」のである。
イエス・キリストの十字架の上で、イエスと共に死ななければ、父なる神の憐れみによったキリストの復活を、自分の身をもって経験することはできないのである。
また、
神から見捨てられて死んだキリストを知るのならば、それでもなお父なる神を信じ続けたイエスを憐れんで、死者の中から復活させた父なる神を知ることになり、
己の人生で、エロイ、エロイ、、と血の涙を流したことがある者だけが、それでもなお、父よ我が霊を御手に、、というつぶやきを拾い上げる神の憐れみを知ることとなる、
これこそが、
「わたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる」ということなのである。
はっきりと言っておく、
私は聖書を体系的に学んだこともなければ、いかなる神学校や宣教学校において学問した事実もない、
長老先生方から按手を受けたこともなければ、尊敬する宣教師も伝道師も古今東西においてただの一人もいはしない、
ただのひと言でもヘブライ語を習い覚えるつもりもなく、あらゆるユダヤ的なるものに関心なく、イスラエル古代史になどかそけき興味もない、
そして、これまでいかなる教会に通いつめた過去もなければ、これからもけっして、ありうるかぎりの宗派だ教義だ神学だの下に徒党を組んだ共同体の活動に参画する事もない。
それでも、
それでもなお、私はわたしの中に永遠に住む”霊”によって、はっきりと言おう、
私は私の人生をもってキリストの十字架の道を歩み、私の身において神に見捨てられた人の子という痛みに満ちた真理を味わい、そして、私の全身全霊をもって、イエスを死者の中から復活させた父なる神の憐れみを受け、なんどでも死の底から復活するものである、と。
神の憐れみの霊によって、なんどでも、なんどでも立ち上がり、起き上がり、光を放ちつつ、永遠に生きる者である、と。
――このように叫びつづける私の唇をば、いったい誰が塞いだり、閉ざしたり、黙らせたりできようぞ。
ほかならぬ私の意志によってでさえ、けっしてできないというのに…!
私が書き続けるのは、わたしの神イエス・キリストと父なる神の心である。
その心とは、私の意志よりもはるかに強く、大きく、広く、深く、熱いものである。
またそれは、さながら仰ぎ見る雨あがりの空のように狂おしく、美しく、気高くして、、、
自由で、無限で、鮮明で、、、
そして、永遠にして不変の感動もたらすような、はてしなき碧空なのだ。