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ヤコブのための祈り


――
すると、正しい人たちが王に答える。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。」
そこで、王は答える。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」
――


またもまたぞろというべきか、

1948年に「地中から上がって来た獣」のように誕生した、永遠に懲りることも恥じることもないような暴力装置による、義なき戦争が勃発してからというもの、

連日連夜、あたかも天の硫黄のごとく降り注がれる爆弾によって、数えきれない命が奪われ、故郷が奪われ、心身が焼かれ、可視不可視の血涙が流されつづけて来たのであるが、

そんな筆舌に尽くしがたい塗炭の苦しみの中にあっても、「神」は尚更もってたしかに存在し、「人」を通してたしかに働きつづけている些細なる真実をば、先般、この目をもって「見る」に至った。

それを簡潔に、しかし、「たがねで岩に刻まれ、いつまでも残るように」という思いを込めながら、ここに書き綴っておきたいと思い立ち、筆を執り上げた。


すなわち、

つい昨日のことであったが、まるで汚泥か糞尿のごとく、連日連夜垂れ流されつづけるニュースの中に、ふと見かけたものであり、それゆえに、ただそこに見た限りの映像をもってしては、その情報の真実であるかフェイクであるか、俄かには判然としえないものであったのだが、私はあるひと言をもって、それをただちに「イエスがキリストであり、キリストがイエスである」真理のような、一脈の疑いも間違いもなき「真実」であるものと、信じるに至った。

すなわち、

罪深き地上のかの罪深き国に住む、罪深きイスラエル人であるところのヤコブという名をした一人の老い人(おいびと)が、あくことのなき殺戮の応酬が再開されてからも、尚更もって、パレスチナ人であるところの子供をイスラエル国にある病院へと送迎するために、自身の所有する車を用いた奉仕活動を続けている――

その子供のために、ガザ地区においてはけっして受けられない必要な医療行為をイスラエルにおいて受けられるようにと、尽力を続けている――

いったいなにがゆえにそのような、あるいは己の身まで危険にさらしかねない愛恤の行いをば継続しているのかと言えば、そのヤコブなる老い人いわく、「私の活動は、どんな力をもってもけっして止めることができないからである」、と。


それゆえに、

私の心は、この老い人のひと言に触れて、喜びと誇りと感謝に満たされて、わたしの神イエス・キリストを誉めたたえるに至った。

すなわち、

私はこの目をもって、たしかに「見た」ものである――

たとえ取るに足らない、ちっぽけな、あまりにちっぽけな行いであったとしても、自分なりの言葉と、自分なりの行いとをもって、憐れみという「小さな義」を表現し続ける人間が、この地上に立派に存在しているその様相をば、「目の当たりにした」のである――

そのような、ずっとずっと「出会わせてください」と祈り続けてきた、憐れみ深く、平和を実現する我が兄弟、我が家族、我が同胞が、血塗られた世紀の大詐欺国家の中にあっても、尚更もってしっかりと生き、働き、語っていたのであると――。


素晴らしい。

佳美しい。

私は1948年に現れた、まるでまるで「小羊の角に似た二本の角があって、竜のようにものを言う獣」のような国家なんかのためには、この命の続く限り、絶対に祈ることなどない――そんなことをするくらいならば、死んだ方がマシである。

かてて加えて、そんな「第二の獣」を伏し拝ませるような、ありうるかぎりの宗派教義神学を生み出しては、蝮の卵をかえすように世界中にまき散らしている悪党どもが今日もまた、額を寄せ合ってははかり、たくらみ、たばかり続けるいかなる結社、集会、共同体にも絶対に参画することもない――そんなことをするくらいならば、両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれる方が、まだマシである。

その代わりに、

ひたぶるに、ただひたぶるに、ちっぽけな、あまりにちっぽけなヤコブ老によって行われ続ける活動が、これからもこれからも、けっしてけっしていかなる力によっても止められることのなきようにと、私はわたしの神イエス・キリストに向かって、祈り続けよう。

ヤコブ老の信仰と行いが、雨あられのごとく降り注がれる巨大な火と比べたら、ちっぽけな、あまりにちっぽけな灯火のようであったとしても、どうかどうか、けっしけっして消されることのなく、いつもいつでもいつまでも灯り続けるようにと、

願わくば、それが無限倍となって、地上の山という山の頂において、金の星、銀の星のごとく明々と灯り続けるようにと、

わたしの神キリスト・イエスの父なる神の霊によって、祈り、祈り、祈り求めよう。

それが、

ただそれだけが、

体は遠く離れていても、ヤコブ老というまことの兄弟のために、ちっぽけな、あまりにちっぽけな私の霊魂にあって、今できる祈りであり、すべき祈りであるものと、彼に与えられたものと同じ信仰によって、確信するからである。


それゆえに、

ただそれゆえに、

かつて与えられ、私の中で今日も燃えあがり続ける”憐れみの霊”によって、はっきりと鏤刻(ろうこく)しておく、

私のこのような祈りについても、

それは「どんな力によっても、けっしてけっして止めることができない」ものであると――。

なぜとならば、

私は、この地上のありうる限りの可視の国、可視の結社、可視の共同体、可視の集会の中において膝をかがめ、首を垂れているからではけっしてなく、

この汚れた体がどこに居て、どこに縛られて、どこに囚われて、誰によって虐げられていようとも、

我が心はひたすらに、ただひたすらに自分の中に再建された不可視の神殿を訪れて、まことの神の家に留まって、永遠の教会に通いつめて、イエス・キリストの再臨の地であるところの神の憐れみの山の頂に登りつめて、

祈り、祈り、祈り続けているからである。


それゆえに、

わたしの神イエス・キリストと、キリスト・イエスの父なる神から「言え」と言われたまま、はっきりと、岩のおもてに刻みこんでおく――

すなわち、

系図民族遺伝的なユダヤ人だからといって、その者の「アブラハムの子孫」であるだなどという事実は、けっしてない。

系図民族遺伝的なユダヤ人であり、それを支持する異邦人であるからといって、そんな者どもの「アブラハムの約束の相続人」であるという事実も、けっしてけっしてけっしてない。(だから、シオニズムなど純粋無雑の暴力にすぎずして、1948年からの国家など、第二の獣のごとく地中から上がって来たがごとき暴力装置以外の、ナニモノでもありはしない。)

アブラハムの子孫とは、キリストのことであり、その者のキリストのものであるかぎりにおいて、約束の相続人でもあり得るのである。

なぜとならば、

神の約束は、イエス・キリストにおいてことごとく「然り」となった、からである。

それゆえに、

ただそれゆえに、

キリストのものである者とは、我が同胞ヤコブ老のように、憐れみ深く、平和を実現する者のことであり、

また、我が家族ヤコブ老のような神の憐れみの灯火が、けっして尽きることがないようにと、たとえ体がどこにあっても、”霊”に感じて、明日なき未来を照らし続ける世界中の「ヤコブ」のためにこそ祈り続ける、私のような者のことであり、

だからこそ、

私たちのような者たちが、アブラハムの子孫でもあるのであり、

よって、たとえば「あなたを祝福するものを、神は祝福し、あなたを呪う者を、神は呪う」という約束の相続人にも、なり得るのである。


それゆえに、

ただそれゆえに、

系図民族遺伝的なユダヤ人だからといって、その者の「アブラハムの子孫」であるとうそぶく人殺しどもとは、すべて「蛇」である――

系図民族遺伝的なユダヤ人たちをば、陰に日向に支持していれば、その者の「アブラハムの約束の相続人」であるだなどと触れ散らかしたりする、いっさいのバカと詐欺師と強盗と奴隷商人とは、自覚の有無を問わずして、「蝮の子」である。

そんな蛇が返した、ありうる限りの宗派教義神学という蝮の卵と、

蝮の子らがつむぎ合わせたくもの糸のような、存在する限りの国家、結社、集会、共同体とは、

すべてなべておしなべて、「先祖の始めた悪事の仕上げ」であり、

よって、そのような「神と人の敵」どもとは、けっしてけっしてけっして、「地獄の罰を免れ得ない」のである。

もしも、

もしもどうしても、「神の約束」を欲してやまないのならば、彼らのための約束など、以下のとおりでしかない――

すなわち、

「蛆は絶えず、彼らを焼く火は消えることがない、
すべての肉なる者にとって彼らは憎悪の的となる。」

――蛇よ、蝮の子らよ、

この神の言葉のとおりに、お前たちには、いかなる平安も、明日も、祝福も、命もない。

お前たちが、この地上において小さな義を知らず、隣人に対していっぺんの憐れみをかけることなくふるまい続けて来たように、

かの日において、お前たちひとりひとりとは、そのふるまいによって裁かれて、いっぺんの憐れみもかけられることなく、徹底的に滅ぼし尽くされるのである。

それが、お前たちの受ける分である。

ただそれゆえに――


蛇よ、蝮の子らよ、

永遠にさようなら。



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