見出し画像

書くことによって、ただ書くことによって


――
主はサムエルに言われた。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」
――


私は今、あるひとつ事について、わたしの神イエス・キリストに託宣を求めている。

しかし、一心不乱にそれを求めているのは、わたしの神イエス・キリストの父なる神であって、それ以外のいかなる存在にむかってでもない。

たとえば、

先だってしたためた『ギブオンの夢枕』という文章においても述べたように、私という人間は、おむつとおしゃぶりの取れなかったガキの頃から、「金、健康、時間、家族、友人」といった現し世の繁栄を追い求めつづけるような生活様式よりも、たとえ一銭の価値もなくとも、嘘偽りのない感動をもたらしめる真実の方をこそ尋ね求め、探し求めて来た。

ある人は音楽を、ある人は絵画を、ある人は彫刻なんかをもってそれを表現し、それの確かに存在することをば意識的にも無意識的にも証ししようとするものだが、私はただひたぶるに文章のみをもって、そうしようとするものである。

それゆえに、私は右も左も分からなかった幼き頃から、文学に慣れ親しんできた――なかんずく、日本語による純文学を選好して来た。すなわち、英語だのフランス語だのロシア語だのドイツ語だのによるものよりも、母国語であるところの古き美しき日本語による散文韻文なんかを、全身全霊で愛して来たのであった――そのような取るに足らない自伝の一端は、『文化選好論』に綴ったとおりである。

またそれゆえに、私は右と左はおろか上も下も分からなかった少年の頃から、古今東西の文学について「聖書」が大きな感化影響を及ぼしていることを知り、その聖書を自ら手に取って読むことをはじめた。そして、その聖書の中において、もっとも偉大な名前であるところのイエス・キリスト――すなわち、イエスはキリストであり、キリストはイエスであるという真理――を知ろうとして、巷のキリスト教会にも足繁く通い出したのだった。

がしかし、

これまでに書き殴った数々の文章によってもはっきりと書き表して来たように、この世のユダヤ教キリスト教たるものとは、聖書に預言されているところの偽預言者や偽りのユダヤ人たちによる「サタンの集い」にほかならず、あまつさえ、金、健康、時間、家族、友人といった現し世の繁栄ばかりを追い求めている「罪の大都・バビロン」であるばかりにして、

それゆえに、いつもいつでもバビロンと共にあり、いつもいつでもバビロンそのものでもある彼らとは、すべてなべておしなべて、この世の安寧と快楽のためとならばイエス・キリストの名を語ってまでしても、人の命までをも平気で競売にかけ、売買し、取引することをもいとわない人殺しであり、奴隷商人であり、死の商人たちであった。

イザヤの預言書に隠喩された、「彼らは蝮の卵をかえし、くもの糸を織る。その卵を食べる者は死に、卵をつぶせば、毒蛇が飛び出す。くもの糸は着物にならず、その織物で身を覆うことはできない…」とは、まさにまさしく、一脈の疑いも間違いもなく、この世のユダヤ教やキリスト教だのいう世界に巣食い、意識認識自覚の有無を問わずに今日もまた、日がな一日悪事を謀っている天上の悪の霊の三下たち――すなわち、祭司だ長老だレビ人だ神父だ牧師だ伝道師だ宣教師だ教徒だ信徒だクリスチャンだのいう手合いども――のことである。

その動かぬ証拠のひとつとしても、彼らは、かつてのイスラエル民族がマトハズレに誇り散らかしていた「切り傷にすぎない割礼」のように、そんなフザケタものよりもよりいっそう無意味にして毒性な、なんの救いにもならなければしるしにすらなりもしない、まさにまさしく「身を覆うことのできないくもの糸」のような「教会のバプテスマ」なんぞを施しながら、やれこれが救いだ、やれこれがしるしだのとうそぶいては、人々をあざむき、人々の心を盗み、金銭を盗み、命を盗み取っているのである――選りに選ってあろう事か、イエス・キリストと、父なる神と、聖霊の名を語りながら…!

それゆえに、このような悪事をけっして看過できないわたしの神イエス・キリストから、「やれ」と言われたままに、私はここに様々な文章を綴り、公開してきた。

わたしの神イエス・キリストの父なる神から「書け」と言われたがそのために、どうしてどうして、ふざけんな!と思う時でも、てめぇでやれ!と反駁する時にも、お前なんか死ね!と叫び上げる時であっても、書きつづけて来た。

だからこそ――


だいぶ、前置きを長たらしくしてしまったが、

だからこそ、私は下劣も極まった当代のユダヤ教だのキリスト教だのいう「サタンの集い」に通ったり、すがったり、献金を施したりするような愚行を重ねて、くだんの託宣を求めるようなマトハズレな真似をしたりなんかしはしない。はっきりと言っておくが、そんなことをするくらいならば、口寄せの女に占ってもらったサウルの方が、まだマシというものである。

さながら下品も極まった「戦後日本の団塊の世代」の提唱する価値観の中には、いかなる真実をも、真実の独り子たる感動をも探し求めたりして来なかったように、私には、ただのバカではない「完全無欠のマトハズレバカ」によっては占っていただくことも、お告げいただくことも、宣っていただくことも、ただの一つとしてありはしない。

それゆえに、

ここ数ヵ月の間、『友よ、我が霊とともに…』という文章を皮切りにして、私が知らず知らずのうちに行って来た事とは、これらいっさいの穢れの穢れ、罪の罪、バカのバカたるシロモノからこそ、我が身を清め、自らを聖別することだった。

最初は、そんなことなど何も分からずに書いていた――ただ、彼らは私の無二の友を死に至らしめた私の敵であって、ガキの水遊びにも如かない「教会のバプテスマ」なんぞをもって人の心を盗み取っているような「教会」に至って、神と人の敵であるという燃えさかる焔火のような確信があったばかりである。

であるからして、

かつてイスラエルの王であったダビデが、数多の苦しみに遭ってはそのたびごとに詩を綴り、歌を詠みながらイスラエルの主なる神に向かって祈り、願い、御心を尋ね、託宣を求めたように、

この時代の、この瞬間の、目睫の”今”を生きる私もまた、我が人生の上にくり返されたる様々な苦しみと痛みの中で文章を書き、物語を紡ぐことによって、わたしの神イエス・キリストと父なる神に向かって祈り、願い、御心を尋ね、託宣を求めているわけである、

そう、書くことによって、ただ書くことによって――。


私は、まだ右も左も分からなかった頃、真実の感動を尋ね求めて聖書を開き、イエス・キリストを探し求めて教会を訪った一人の朴訥たる少年を、さながら待ち構えていたがごとくに「くもの糸」に絡み取り、生き血を啜り取るべく「蝮の卵」を食べさせて来た、この世のユダヤ教キリスト教に巣食う者どもとは、「倒れた、バビロンは倒れた」という神の言葉によって、かの日においていっぺんの憐れみもかけられることなくことごとく滅ぼし尽くされる運命の下にある蛇であり、蝮の子らであることを知った。

それゆえに、『復活したイエスはユダヤ人か?』という文章にも綴ったように、イエスはキリストであり、キリストはイエスであるという真理をもたらす「復活したイエス」とは、ただただ、人に命を与える”霊”であって、宗派だの教義だの神学だの旗下に徒党を組んだ教会なんぞを通してしか語ることの許されていない存在なんかではけっしてなく、そんな生きた知恵の代わりに自分の糞でも頭に詰めこんだような牧師や神父やの支配する結社なんかが施している「ガキの水遊びにも如かないバプテスマ」を受けなければ、知ることも出会うこともできない存在でもない――むしろ、そのような場所からは、肉的にも霊的にも徹底的に離れ去らない限りは、出会えるものにもけっして出会えなくなってしまう。

というのも、『アカンに割礼はあったか?』という文章にはっきりと書き記したように、かつてイスラエルの共同体全体に災いをもたらしたアカンなる不届き者は、肉の割礼を施された後に、主なる神の言葉に逆らって罪を犯した。そのために、その家族ともども徹底的に滅ぼし尽くされた。そんな肉の割礼よりも、さらにいっそう罪の赦しにおいて無意味にして、かつ救いにおいて毒性の教会のバプテスマなど、イエス・キリストのものであるといういかなる”しるし”にもなりはせず、そんなものを受洗したからと言ってキリスト・イエスの声を聞き分けられるようになるわけでも、父なる神の御心に聞き従えるようになるわけでもけっしてない。

にもかかわらず、そんなフザケにフザケタものをばあたかも赦しや救いやしるしやのようにして、無辜の人々に売りさばいているようなこの世のすべての教会とは、すべてなべておしなべて「サタンの集い」であり、そのような「死に至る罪」のために積極的にも消極的にも手を貸している構成員たちとは、ただの一人の例外もなく、かの日にあっていっぺんの憐れみもかけられることなく滅ぼし尽くされる滅びの子である――それ以外のいったいなんであろうか…!

がしかし、この私は違う。

私はそう、書くことによって、ただ書くことによって、「違い」を証明して来たのだから――ほかの誰でもない、「イエス・キリスト」に向かって、「キリスト・イエスの父なる神」の御前においてこそ…!


それゆえに、

おそらくはイエスの名も知らず、ついぞ聖書の表紙をめくったこともないような、障がいを持った子供を男手ひとつで育てている私の知人のように、私は自分の人生において復活したイエスに出会い、自分の身をもって死者の中からキリストを復活させた憐れみ深い父なる神からも知られた、「内面がユダヤ人である真のユダヤ人」である。

私はユダヤ教キリスト教のいかなる教会にも通わず、宗派も教義も神学もあますところなく腹の底から嘲笑し、1948年に建国したイスラエル国なぞ蜂の頭ほども支持せず、ユダヤ的なる文化、伝統、歴史等々のいっさいにかそけき興味もなく、ただの一言のヘブライ語をさえ習い覚えようとは思わない――

それでも、

それでもなお、私はイエスがキリストであり、キリストがイエスであるという真理と奥義とを、この身をもって知っており、この人生をもって体験し、経験しつづけている、古今東西と未来永劫において生きた事実を持つ人間の内でも、イエス・キリストからもっとも愛されている永遠の伴侶である。

だから私は、合わせて二十億だか三十億だか知らないが、この世のユダヤ教キリスト教にへばりついていなければならないような蚊虻どもとは、母の胎内にいたころから違っていた。

母の胎内にいた頃の、はるかな以前のその昔から、わたしはイエスに知られ、キリストに愛され、父なる神から選び分けられて、愛されて来た。

それゆえに、

私は、糞も小便も一人ではできない赤子の頃から、「金、健康、時間、家族、友人」の類よりも、「一銭の価値も無き真実の感動を追い求める者」であった。

そして私は、

そのように、母の胎内にいた頃からわたしの神イエス・キリストと父なる神によって知られ、

それゆえに、股間にうぶ毛の生える前から周囲の人間たちとは一線を画した子供であり、

それゆえに、この世のユダヤ教キリスト教だのいうバビロンをば、まぎれもなきバビロンであることを見抜き、わたしたちの神イエス・キリストの知恵と力たる「信仰」によって、たとえば「バビロンは倒れた」という”声”を聞き分けて来た――

そんな私自身のような人間に、「邂逅させてください」と、イエス・キリストの霊によって、父なる神に願い求めている。

さながらサウルに失望したサムエルがダビデを求めたように、サムエルでもダビデでもない私が、サムエルやダビデのような「信仰」によって、それを求めているのである。

はっきりとはっきりと言っておくが、私の求めているものとは、サムエルが求めた「少年ダビデ」であって、後のダビデ王がアムノンをあきらめたがために求めた「アブサロム」なんかでは、けっしてない。

「アブサロム」を求めれば、心の弱ったダビデが老獪なヨアブに謀かられ続けたように、私をあざむこうとする獅子身中の虫は、いつでも蜘蛛の糸を張りめぐらせながら、舌なめずりをして待ち構えている。

すなわち、

「イスラエルの中でアブサロムほど、その美しさをたたえられた男はなかった。足の裏から頭のてっぺんまで、非のうちどころがなかった。毎年の終わりに髪を刈ることにしていたが、それは髪が重くなりすぎるからで、刈り落とした毛は王の重りで二百シェケルもあった。」

――ダビデは、老境に至って、このようなアブサロムを求めた。

「しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」…」

――老いたるサムエルは、サウルをあきらめて、このような神の言葉に聞き従った。


私は当初、この文章のタイトルを『ダビデは託宣を求めた』というふうにしようかと考えていた。言わずもがなだが、老いたるダビデに対する皮肉をそこにこめながら。

が、実際にサムエルが立って油を注いだかつてのダビデとは、「血色が良く、目は美しく、姿も立派」な少年であった。

私は、これがサムエルの肉眼ではなく、心の目に映りこんだ姿であったことを知っている――

私は私以上にそれを「はっきりと知っている」ような生身の人間に、今の今まで邂逅したというためしが一度たりともない。

なぜとならば、この私もまた、油注がれたダビデのように、右も左も分からなかった頃から、「金、健康、時間、家族、友人」といった肉眼に映るものではなく、一銭の価値もなくとも、しかしたしかに「心の虹彩を輝かしめるもの」をこそ探し求め、尋ね求め、祈り求めて来たからであり、

それこそが、周囲のあらゆる大人たちを鼻にもかけなかったクソガキの頃からの、私の「信仰」だったのであり、

そのような「信仰」を持った私以外の人間に、私はこの身をもって出会った事が無いからである。


それゆえに、

私は今、あるひとつ事について、わたしの神イエス・キリストと父なる神とに、託宣を求めている。

書くことによって、ただ書くことによって祈り、願い、求めて来た。

それゆえに、私は確信を得た。

すなわち、私は私の「心に映った少年ダビデ」こそが、「立って油を注ぐべき人」であることを、もう間もなく、信仰によって知ることになるだろう――と。


そうだ、

このように書くことによって、ただ書くことによって、

私はいつもいつも、こんなふうにわたしの神イエス・キリストと、イエス・キリストの父なる神との、会話を楽しんで来たのである。

そのようにして、たとえば私が、これから私の人生において、この身をもって邂逅する「少年ダビデ」の頭の上に、みまがうことなく、「油を注ぐ」ことができるようにと。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?