生きたくば、虚心坦懐に聞け
――
しかし、イエスは言われた。
「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」
――
『神殿なんかいらない』という文章の中で、私はかつてこう書いている。
……イエス・キリストは生きている。
原初の昔のその前から生きていたし、過去の歴史の中にも生きていたし、今のこの時代の、この瞬間においても、生きている。
わたしのかたわらで、わたしの姿をその佳美しい虹彩の中に映しこみながら、動いている。
昨日は右へ行け、と言っていたが、今日は左だと言っているのか。
私はそれを聞き分け、それを見分けようとする。
あるいは、今は山のようにじっと動かずにいろと言っているのか。
私の心は、「いま、イエスはなんと言っているのか」を知ろうとする。
それが私の「信仰と行い」である。……
イエスが、キリストが、キリストの父なる神が、たったいま、この日この時この刹那において、いったい何と言って、私に語りかけているのか?
あるいは、この国の、この時代の、今日という日にあって、何を語っているのか?
私は、わたしの神イエス・キリストの言葉を、虚心坦懐に聞こうとする。
だから私は、空模様をでも見分けるように、時代のしるしを見せられた。
だから私は、『裸の王様たち』においても、『イエス・キリストの福音』においても、『もののあはれ』においても、はっきりと書き表してみせた。
すなわち、「神に背いたよこしまな時代の者たち」が必ずや、神によって裁かれ、報いられ、復讐されるということを、さながらヨナのように、叫び上げてみせた。
いや、ヨナなんかよりもずっと純粋な情熱と、誠心誠意とをもって、虚心坦懐に神の言葉を聞き、聞き分けたからこそ「言え」と言われたことを、自分の声、自分の筆、自分の言葉によって、はっきりと揚言してみせた。
さながら幼子のようなまっすぐな心をもって、イエスの、キリストの、キリストの父なる神が私に向かって語ることを聞き、聞いたからこそ、「彼らが聞こうが聞くまいがわたしの言葉を語れ」という声に聞き従って、「哀歌と呻きと嘆きの言葉」をば、書き表してみせた。
それが、虚心坦懐に聞くことから始まった、私の信仰であり、行いなのであった。
「実に、信仰は聞くことにより」という言葉のとおり、すべては、私が虚心坦懐に、子供のような素直な心をもって、「しかも、キリストの言葉」を聞いたからこそ、始まったのである。
それでは、「始まった」とはいったい、なんのことであろうか。
たった今も述べたように、あるいは、『喜びの神殿』のような文章にも書いたように、「イエス・キリストの父なる神の御心を行うという信仰生活」こそが、始まったのである。
私はそのようにして、今日ただいまに至るまで、二年という日月に渡って書き、書き、書き、書き連ねて来た。
それが私の信仰と行い、すなわち、信仰生活である。
それゆえに、ここにはっきりと言っておく――
私はその間、ただの一度たりとも、自分以外の「人」に取り入ったり、おもねったり、気に入られようとしたりして、作文したことはない。
それゆえに、もうひとつ、ここにはっきりとはっきりと言っておく、
「やれ」という言葉に聞き従って、私はこの二年間の、己の書いたものをばふり返る、
さながら七曲りの峠道をでも見渡すがごとく、ふり返る、
実にもって、実にもって、みごとな、みごとな文章の数々である――と。
私は、私の筆の価値を正しく知り、私自身の価値をも正しく知る。
私はひとつの歴史的使命を帯びており、私の文章もまた、同じ歴史的価値に満ち満ちている――人のそれではない、神の紡ぐ歴史においてこそ…!
『自分で食べて、自分で味わえ』という文章においても書いたことであるが、私の文章とは、アブラハムやモーセの信仰と行い以上に、神の心を喜ばせたものであるのだから、神の紡ぐ歴史において、私という存在は、アブラハムやモーセよりも貴ばれ、愛された者なのである。
かたや、
アブラハムやモーセといったたかが「人」の威を借り、大樹の陰に寄っただけのユダヤ教やキリスト教といった世界に蝟集した鼠輩どもとは、「彼らは蝮の卵をかえし、くもの糸を織る。…くもの糸は着物にならず、その織物で身を覆うことはできない」という言葉のとおりに、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分からないまま、巷の目抜き通りの教会に入りびたり、なんのしるしにも救いにもならず、たったひとつの罪の赦しにさえなりはしない、切り傷にすぎない割礼のようなバプテスマをその身に着込んでは今日もまた、あーめんごっこやいえすさまごっこといったバカに余念のない、「裸の王様たち」と選ぶところがない者たちである。
冒頭の「信仰は聞くことにより…」という言葉のとおりで、ユダヤ教キリスト教なるバビロンを構成する蛇や蝮の子らとは、教会へ行こうと、聖書を読もうと、どこでなにをしていようと、「キリストの言葉」を聞いているのではない、自分たちが編み出したくもの糸のような宗派教義神学の教え、ただそれだけを聞いているのである。
それゆえに、『復讐の預言、励ましの預言』や『イエス・キリストの福音』という文章でも述べたように、たとえば同じ聖書の同じ黙示録を読んだとしても、彼らは「恐れ、恐れ、恐れ」をその胸に抱き、やれハルマゲドンだ、やれ大患難時代だ、やれ最終戦争だと叫び上げては、人心に「恐れ、恐れ、恐れ」ただそれだけを抱かしめる宗派教義神学を蔓延させようとするのである。「その卵を食べる者は死に、卵をつぶせば、毒蛇が飛び出す」という言葉のとおりに…!
であるからして、
この私のように虚心坦懐に、幼子のような心をもってキリストの言葉を聞こうとする者とは、彼らとはなにからなにまで対照的な存在なのである。
というのも、私たちのような者がヨハネの黙示録を読むと、「福音、福音、福音」という励ましと慰めの黙示を語り聞かされる。
ラッパの調べは、ことごとく、「神は必ず助け、復讐する」という希望の音色となり変わる。
しかりしこうして、神は乏しき者をけっして捨て置かず、虐げられたる者のために復讐するという「現実」を、この目をもって、見届けることになるからである…!
だから私の文章は、歴史的使命を帯びていると言っているのである。
私は、虚心坦懐に、キリストの言葉を聞いて、聞いたからこそそれに呼応し、反応し、応答するように、キリストに向かってこその執筆に身を削り、命を賭して来た。
私が動かそうとしたのは、神の心であって、人の心ではない。
が、人の心をすら動かせないのに、神の心が動かせるだろうか。
では、その「人」たるは、だれのことなのか。
まずもって、己ではないのか。
神の心を動かすためには、まずもって、自分の心を動かせばいい、すなわち、己の心をば感動させる作文に、命をかけたらいい――
私はそのようにして、この二年の日月、己の心をば感動させ得る文章をこそ、したため続けて来た。
はっきりと言っておくが、たかが自分の心をすら感動させ得ない者が、仮に他人の心をと思い立ってみたところで、どうしてそれをなし得ようか…!
それでは、神の心は、どうなのだろうか。
私は何人たりとも揺るがせ得ない岩(確信)の上に立って、はっきりと確言する――
神もまた、大いに感動している、と。
神は、私の書いて、書いて、書いた文章をば手に取って、読んで、読んで、読み上げて、しかして、アブラハムやモーセの信仰と行いのように、あるいはそれ以上に、全身全霊で喜んでいる、と…!
どうしてそんなことが分かるのか。
簡単なことだ。
冒頭よりなんども述べているように、私のこれまで書いて来たものとは、わたしの神キリスト・イエスから、「言えと言われたこと」であるからである。
「神のことを知る者は、神の霊だけである」ように、
神の心を感動させ、喜ばせることのできるのもまた、神の言葉だけなのである。
だから私の命は、歴史的使命を帯びているのである。
神の心を動かすことが出来たならば、すべてが変わるからだ。
神の心を動かすこととは、歴史を動かすということである――たかが人ごときの紡ぐ可視の歴史ではない、神がこそ紡ぐ不可視の歴史をである。
神の心を変える、あるいは、感動させる、あるいは、喜ばせる、あるいは、憐れませる、あるいは――ということをやりたければ、ほかでもない、神の言葉をば、命をかけて語ることだ。
そして、神の言葉をば、命をかけて語りたくば、イエスの、キリストの、キリストの父なる神の語りかける言葉をば、虚心坦懐に聞くことから、始めることだ。
が、何度でもくり返しておくが、神の言葉を幼子のような素直な心をもって聞くという行為とは、誰かの真似事をするのではない、
噂に聞いた神の名前を復唱するのでもなければ、この世の認証認可を受けた結社の歴史伝統慣習に付和雷同するのでもない、
すなわち、聖書に書かれた言葉を一生懸命に朗読したり、解説したり、分析したり、研究したりして、それによって愚にもつかない宗派教義神学を編み出しては、その旗下にこぞり集まって慣習をこしらえて、切り傷にすぎない割礼のようなバプテスマを授けたり、授かったりすることでは、けっしてけっしてないのである。
くだんのヨナなる預言者とは、まことに愚かで、利己的で、ハシにもボウにもかからぬような、古代イスラエルの一小男であった。
がしかし、たとえ身も心もふてくされた、ぶっきらぼうな、なげやりなやり方でしかなかったとしても、ヨナは自分自身の口をもって、言えと言われたように、滅びの預言を述べ伝えた。
それゆえに、ただそれゆえに、ヨナの唇から出た神の言葉とは、まずもって神の心を動かした。
動かされた神の心が、こんどは人々の心を揺り動かして、しかりしこうして、時の王から乞食にいたるまで、二ネベの民衆はことごとく、神の御前に悔い改めたのであった。
三度目、いや四度目になるが、私はそのような歴史的使命を帯びている。
それは、神から言えと言われたことを、自分の声、自分の筆、自分の命の限りを尽くして言い続ける、という使命のことである。
それゆえに、誰に聞かれようと聞かれまいと、ただ言えと言われたままに、ここにはっきりと言っておく。
すなわち、
この世のユダヤ教、キリスト教とは、裸の王様である。
彼らの名前は「罪、罪、罪」であり、彼らの未来であり、終点であり、行き着く先は「滅び、滅び、滅び」である。
それは、彼らの心のある彼らの宗派教義神学の伝道するものとが、「恐れ、恐れ、恐れ」ただそれだけだからである。
がしかし、
私の知るイエス・キリストという神の名前とは、「憐れみ、憐れみ、憐れみ」である――憐れみこそ、わたしの神の心を動かす力、力の源であるからである。
私の読む聖書の証するキリスト・イエスとは、いつも、いつでも、どんな時も、そしていつまでも、永遠不変に、「福音、福音、福音」を語っている――だから私は、ユダヤ教キリスト教という蛇と蝮の子らの巣窟であるところの、「この世なるバビロン」からは、徹底的に離れ去れり、足の塵を払い落とし、自らを聖別した。
それゆえに、私の今であり、未来であり、永遠の時代へと続く私の命へ向かって、今日、神から語りかけられた神の言葉とは、「祝福、祝福、祝福」なのである――なぜとならば、それもまた、今日、私のために告げ知らされて、そして、言えと言われたまま書いている、イエスの、キリストの、キリストの父なる神の心をば動かし得る、キリスト・イエスの名前であるからである。
私はこのようにして、たったひとつの自分の人生と、たったひとつの己の命をかけて、神の言葉を虚心坦懐に聞くことから始め、
聞いたからこそ、「言え」という声に聞き従って、たったひとつの身と心と霊をなおのこと一つにして、声を尽くし、筆を尽くし、命を尽くして、書き、書き、書き続けて来たのである。
そして、これからも、たったひとつの身と心と霊をなおのこと一つにして、一つにするからこそ、声の限り、力の限り、命の限り、それを行い、行い、行い、行い続けてゆくのである。
わたしを求めよ、そして生きよ――!
これ以上、何を言おう。
もしも生きたくば、神の言葉を、虚心坦懐に聞け。
幼子のようなまっすぐな心をもって、キリストの言葉を聞くことから、永遠の命は始まっていく。
そして、始まったものに終わりはない。
私の書いたものをただ読んで、真似事をしてみせても、けっして「聞いた」ことになどなりはしない。
自分で食べて、自分で味わえ――
自分の耳と、自分の心をもって、自分の人生の中をねり歩き、自分の神と出会え――
虚心坦懐に、幼子のような心をもって、自分に語りかけられる、キリストの言葉に聞け――!
かつて、『キリストの子』という文章を仕上げ、私はひとつの誓いを立てた。
それからおよそ半年の時を経て、私の誓いに対するイエスからの回答として、『産めよ、増えよ、地に満ちよ』という作文を書かされた。
「産めよ、増えよ、地に満ちよ」というその調べ通りの、神の祝福の言葉を与えられた。
これが、「祝福、祝福、祝福」というキリストの名前である。
「産む」のは、キリストの子である。「増やす」のも、キリストの子である。「地に満たす」のも、キリストの子である。
だから、「祝福、祝福、祝福」という名前は、キリストの名前であり、かつ、わたしとキリストの間に生まれた子の名前でもあるのである。
こんな祝福の言葉をば霊的に、あまりに霊的にかけられたのは、誰か――
そして、そのような祝福、祝福、祝福の言葉をば霊的に、あまりに霊的に聞き分け、聞き取り、聞き従ったのは、誰か――
荒れ野から上って来るおとめは誰か、恋人の腕に寄りかかって――!
……園にある木の実を取って食べたように、私は神の言葉を食べた。
園も、園にある木も、木になった実も、すべて神の言葉が造り出したものである。
それでも、それを手に取って食べたのは、私である。
そんな言葉が、私は嬉しいのだ。
そんな言葉をかけられて、なにが嬉しいのか分からないままに、私は笑うのだ。
だから、笑い、笑い、笑い、
それもまた……
【追記】
虚心坦懐に、あるいは、幼子のような素直な心をもって、キリストの言葉、神の言葉を聞く――聞こうとする
たとえ、どんなことがこの身に起こっても――たとえそのために命を落とすことになっても――
このような「心の形」を体得したこと、造り変えられたこと、これが、今日のわたしと、昨日までのわたしとの違いである。
そして、これこそが、わたしのためにくり返された荒野の試練鍛錬の主たる目的であり、神の意図であり、キリストの願いであった。
イエスの声を聞き分け、キリストの言葉に聞き従い、キリストの父なる神の御心を行うこと――
そのためにこそ、この身も、心も、すべて造り変えられて(死んで復活して)、見た目は同じでも、まったく新しい身と、心と、霊ともって、まったく新しい人生の旅路を歩みはじめること――
このような実体験、人生経験こそが、「わたしの神イエス・キリストとの邂逅」である。
どんな時も、たとえなにがあっても、イエスの声を聞き分け、キリストの言葉に聞き従い、キリストの父なる神の御心を行うこと――行おうとすること――
そんな「新しい心の形」こそ、わたしに与えられた、最高の力のような才能のような技術のような財産のような宝物のような賜物のような救いのような祝福ような永遠の命のような信仰のような…すべてなのである。
2024.5.31
無名の小説家