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世の光、異邦人の光



――
あなたはわたしたちの父です。
アブラハムがわたしたちを見知らず
イスラエルがわたしたちを認めなくても
主よ、あなたはわたしたちの父です。
「わたしたちの贖い主」
これは永遠の昔からあなたの御名です。
――


いつかはやって来ないというが、いつか、上の一節が綴られている「イザヤ書」について、詳しく語ってみようと目論んでいる。

が、旧約聖書におけるこのイザヤ書なる預言書とは、げに長ったらしい。別に長ったらしいから悪いと言いたいわけでもないのだが、パウロさんなる使徒のお手紙のように、長いものは長いのである。


がしかし、

長いだけのことはあって、イザヤ書には実にもって種々の事柄が語られている。

たとえば、ユダとイスラエルの裁きについて、ユダとイスラエルを滅ぼした国々への裁きについて、ユダとイスラエルの復興について、それから、イザヤ書全体のほぼ中心あたりに、なぜかあえて挿入されたように挟まっているヒゼキヤの病気と回復とその後の愚かな失敗のエピソードについて――などというふうに、それぞれについて語ってみたいと思うものであるが、さしあたり、この文章においては、以下の一点に絞って書くこととしよう。

すなわち、異邦人の救いについての預言である。

たとえば、さっきちらと名前を出したパウロだが、この男もまた、自らを異邦人伝道のために召された使徒だと、聖霊によって自称していた。

それゆえに、

彼がピディシア州のアンティオキアという町の会堂において、イエスがキリストであることを語っている時、ねたみに駆られたユダヤ人たちによって妨害された際、パウロは彼らに向かってはっきりと、

「わたしはあなたを国々の光とし
わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」

というイザヤ書の言葉を引用し、己の召命について宣べている。

そして、そんなことをしたことによって、多くの異邦人たちには喜ばれた反面、その町にいた主だったユダヤ人たちからはよりいっそう恨まれて、迫害され、ついにはアンティオキアの町から追い出されてしまうのである。

だが、その時パウロと、一緒に居たバルナバとが、そのようなユダヤ人たちに対して、「足の塵を払いと落とし、イコニオンに行った」と書かれているが、

私はこの部分が聖書の中でも、ことさらに好きである。

好きというよりも、パウロおよびバルナバが、なにゆえにそのような行為におよんだのか大変によく分かるし、当時の彼らの思いに、これ以上のない共感を抱かされるものである。

というのも、この私もまた、当時の物分かりが悪く、心のひねくれていたアンティオキアのユダヤ人たちよりも、さらにいっそう性根も腐りきって、もはや救いようもなくなった当世のユダヤ教やキリスト教に巣食う悪党どもに対しては、もうとっくの昔に「足の塵を払い落して」しまっている。

それゆえに、ここでまたあらためて言っておくが、かつてパウロやバルナバが心のかたくななユダヤ人たちに対してそうしたように、この私も、現代のユダヤ教キリスト教とそこにたかっている「蛇と蝮の子」らに対しては、永遠に足の塵を払い落としたのである――

だから、合わせて二十億だか三十億だか知らないが、そんな世界で今日もまた飽くこともなく陰事をたばかり、性懲りもなく悪事を働いている彼らがためには、

同じイザヤ書の最後の最後に、いみじくも語られた言葉こそが、彼らの末路をば鮮明に告げた「神の言葉」であることを、私の中に住む聖霊によって、ここにはっきりと書き記しておくものである。

いわく、

「外に出る人々は、わたし(イエス・キリスト)に背いた者らの死体を見る。
蛆は絶えず、彼らを焼く火は消えることがない。
すべての肉なる者にとって彼らは憎悪の的となる。」


それゆえに、

この世のユダヤ教キリスト教の世界に蛆のようにわいている者どもよ、

ざまをみろ

お前たち一人ひとりに、もはやいかなる救いも、命も、未来もない。

お前たち一人ひとりとは、この地上にあってまったく蛆のようであったように、かの日にあっても蛆によって満身を覆い尽くされて、ついには、その髪の毛一本も残らないようにと徹底的に焼き尽くされるのである――すべての肉なる者からの憎悪の的とされながら…!

だから、ざまをみろ。

お前たちは一人ひとりとは、「蝮の卵をかえし、くもの糸を織る」手合いである――お前たち一人ひとりとは、「その卵を食べる者は死に卵をつぶせば、毒蛇が飛び出す」ようにいそしみ続ける悪党である――お前たち一人ひとりの織る「くもの糸は着物にならず、その織物で身を覆うことはできない」、にも関わらず、お前たち一人ひとりがそれを売りさばき、私腹を肥やしつづけている――お前たち一人ひとりの織った「織物は災いの織物」であり、「その手には不法の業がある」――不法の業とは、すなわち、お前たち一人ひとりが盗み取った人々の金で、同じ人々をバビロンへ奴隷として売りさばき、そのようにして人々の命まで奪い取ってやまない、お前たち一人ひとりが今日もまた犯しつづけている「聖霊を冒涜する罪」のことである。

それゆえに、お前たち一人ひとりとは、イザヤ書のみならず、聖書全体に渡って描かれ、預言され続けて来た、「滅びの子」である。

だから私は、お前たち一人ひとりに対して、永遠に足の塵を払い落とした。

だから私は、かの日にあってお前たちが一人残らず焼かれる姿を見て、腹の底から嘲笑う――お前たち一人ひとりが受けるべき分を受けたのだ言って、私のような光の子らとともに、永遠に神の裁きの正しさを誉めたたえるのである。


それゆえに、

わたしの神、父なる神の憐れみによって死者の中から復活し、父の右の座において永遠に生きるイエス・キリストの霊によって、はっきりと言っておく、

冒頭の聖句とは、まさにまさしく、今日における私のような者の信仰のあり方について、預言していたものであると。

すなわち、

「アブラハムがわたしたちを見知らず、イスラエルがわたしたちを認めなくても、主よ、あなたはわたしたちの父です」

とは、

この世のユダヤ教がわたしたちを見知らず、キリスト教なんぞがわたしたちを認めなくとも、イエス・キリストよ、あなたはわたしたちの神であり、あなたの父なる神とは、わたしたちの父です――

というふうに喉の嗄れるまで叫び上げている、この時代の「わたしたち」のためにこそなされた預言であると。

であるからして、

同じイエス・キリストの霊に満たされて、さらにはっきりとはっきりと言っておく、

預言書の中でくり返し述べられている「異邦人」とは、二重の意味を持たされている。

すなわち、血肉、系図、民族的なユダヤでもイスラエルでもない異邦人と、

自称「わたしたちはユダヤ教徒です、キリスト教徒です」という者たちにはけっして組しない、霊的異邦人と、である。

私はここで、あえて「霊的異邦人」という分かりにくい、あるいは誤解を生みやすい言葉遣いをしたが、それは、そういう人々こそが「内的ユダヤ人」であり、「内的クリスチャン」であるという思いを込めて言っているからである。

かつて二千年前にも、アブラハムだのイスラエルだのと声高に主張していたトンチンカンどもとは、「アブラハムが生まれる前から、わたしはある」という、このイエスのたったのひと言だけで一蹴されてしまった――

この現代においても、同じそのひと言とは、けっしてけっして滅びることも色褪せることもなく、力強く生きている――

だから、同じ「アブラハムが生まれる前から、わたしはある」というひと言をもって、当代のユダヤ教キリスト教と取引を続けている悪徳商人たちの、すべての拠り所とてもまた、完膚なきまでに打ち砕かれてしまうのである。

そうだ、

たとえばもうなんどもなんども言って来たが、1948年に建国したイスラエルなんぞいう可視の国家などは、その最たる一例であって、あのようなフザケにフザケた代物など、聖書の預言の実現でもなんでもなく、いかにもそれを装った、茶番の極み、世紀の詐欺にほかならない。

かつてダビデが統一したイスラエル王国にも如かない国連加盟国ふぜいや、ソロモンが建設したものにも見劣る神殿なんぞをより頼んだり、そんなものをばとりわけて支持しているような手合いどもとは、たったの一人の例外もなく「偽りのユダヤ人」であり、それ以外のナニモノでもありはしない。

だから、彼らにはいかなる救いも命も未来もなく、ただただいっぺんの憐れみもかけられることなく、徹底的に滅ぼし尽くされるのである。

くり返すが、そういう輩一人ひとりに対して、私はすなわち「霊的異邦人」なのであり、それゆえに、永遠に足の塵を払い落としたのである。

これは、”霊”に満たされて荒野に赴いたイエスが、同じ”霊”によってこう言ったのと同じである――

「退け、サタン。あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ、と書いてある」――と。


それゆえに、

かつてのイエスとまったく同じ”霊”と、そして、父なる神の憐れみによって復活したイエスの”霊”によって、私はかくも言うものである、

私もまた自分の人生において荒野の試練を受けたが、その試練によって、私は私の先祖同胞家族のための「憐れみの器」となり、と同時に、彼らという「憐れみの器」に盛られた者となった――

それによって、イエスが私を憐れむ時に彼らが憐れまれ、父なる神が彼らを憐れむ時には私をも憐れまれることができるようにと。このような経緯については、『わたしは主である』や『憐れみの器』やに、書き綴った通りである。

同様に、

偽りのユダヤ人たちの悪事と謀略によって、私の無二の友が殺された――その復讐の戦いに備えるためにこそ、私は自らを聖別し、そして、恐れることなく「天上の悪の霊」との霊的戦いを立派に戦い抜いた。――いや、むしろ喜びと賛美の歌を歌いながら敵陣へ攻め下り、堅く立ってイエス・キリストが戦う様子を見届けて、キリスト・イエスの勝利の行進に連なって、永遠の救いと安息に至った。――このような経緯は、『友よ、我が霊とともに…』から『人の戦い、神の戦い』に至る各文章において、力強く書き記した通りである。

それゆえに、

「勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」というイエスの言葉が、私にはよく分かる。よく分かる以上に、この身をもって体験し、己が人生をもって経験した「キリストの勝利」そのものである…!

私はこれまで、すべてを犠牲にして書いて来た。そのように命をかけて書くことによって、ただ書くことによって、イエスがキリストであり、キリストがイエスであるというとこしへの勝利の戦列に連なって、永遠の凱歌を歌い続けてきたのである。

それゆえに、

「わたしはあなたを国々の光とし
わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」

この言葉がかつてパウロやバルナバのために預言されたものであるように、同じ言葉はまた、この時代の私のためにもなされた預言でもあったのである。

すなわち、

パウロが「国々の光」であったように、

私は「イエス・キリストの救いを地の果てまでもたらす者」であるのであり、

パウロが非ユダヤ人たちの光として定められたように、

私は非ユダヤ教徒、非キリスト教徒の光であるようにと、イエス・キリストの憐れみと、父なる神の御心によって、定められたのである。


であるからして、

最後にまた、”霊”に満たされてはっきりと言っておく、

私の命は、すでに私のものではない。

「わたしたちの贖い主」――これは永遠の昔からあなたの御名です

という言葉の通りに、

私の命とは、すでにイエス・キリストによって贖われたものだからである。

だから、

もしも、「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」という死に方をしなければならないとしても、それがなんであろう。私にはなにも恐れることなどない、むしろむしろ、喜んでそれを受け入れようぞ――!

この地上における父なる神に喜ばれる生き様も死に様も、すでにイエスとイエスに愛された者たちとが見せてくれているのだから、私もまた、ただ喜び勇んで、それらに倣うばかりである。


――
あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。
――


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