イエス・キリストの黙示 ①
――
彼らは蝮の卵をかえし、くもの糸を織る。
その卵を食べる者は死に
卵をつぶせば、毒蛇が飛び出す。
くもの糸は着物にならず
その織物で身を覆うことはできない。
彼らの織物は災いの織物
その手には不法の業がある。
彼らの足は悪に走り
罪のない者の血を流そうと急ぐ。
彼らの計画は災いの計画。
破壊と崩壊がその道にある。
彼らは平和の道を知らず
その歩む道には裁きがない。
彼らは自分の道を曲げ
その道を歩む者はだれも平和を知らない。
――
上の文章は、以前にも書いたことのある「偽りのユダヤ人たち」を描写したひとつである。
後半の部分については、その文字通りに読んでいってもなんとなく分かるだろうが、
前半の部分については、その文字通りに読んだだけでは、まったく何のことだか、ちんぷんかんぷんだという人の方が多いのではないだろうか――長年、聖書に慣れ親しんで来たような人々においてさえ。
それもそのはずである。
聖書とは、間々、このような書かれ方をしており、そしてこれは、はなはだ意図的にそうなされているからである。
なぜか――?
簡単な理由である。
いつもいつも言っていることではあるが、聖書とは、「信仰」によって読むものであり、「信仰」によって読まなければ、その真意、その真理、その奥義を悟ることは、けっしてできないようになっているからである。
そして、「信仰」とは、長年に及ぶアカデミックな研究分析の堆積のことを指しているのでは、けっしてない。
私はこれまでも、「信仰」について様々な定義を行って来たが、ここでいう「信仰」とは、「神の知恵」、「神の啓示」のことである――それを与える、「イエス・キリストの霊」のことである。
それゆえに、かりに冒頭の聖書の文章を完璧な原語をもって読みこんでいこうとも――そんなことを何万年継続しようとも――けっしてけっして、「真理」に到達することはできはしない。
ところが、「信仰」を与えられた者が読むのであれば――たとえアカデミックな研究分析の実績にはいちじるしく欠け、たった一言の原語の知識もなく、教会における礼拝も、奉仕も、活動の記録も皆無の者であったとしても――「イエス・キリストの知恵」によって、「神の心」を理解することができるのである。
それでは、
「彼らは蝮の卵をかえし、くもの糸を織る」とは、
いったいなんのことであろうか。
もうすでに書いて来たことではあるが、私は「信仰」によって、「彼ら」すなわち「偽りのユダヤ人たち」の、誰のことであるか、知っている。
この時代の「蝮の卵をかえし、くもの糸を織る」連中についても、知っている。
ただし、
「聖書はわたしについて証するものだ」と確言したイエス・キリストの、その「霊」によって、以下のようにまでしか、語ることが許されていない。
すなわち、
「その卵を食べる者は死に、卵をつぶせば、毒蛇が飛び出す」とは、
従っても、抗っても、毒にしかならないということである。
ある種の人々に「従って」、卵を食べれば死に至り、
そしてまた、ある種の人々に「抗って」、卵をつぶそうとすれば毒蛇が飛び出す。
もしも、この言葉をきちんと理解したいと思う人がいるのならば、たとえ拙い経験であっても、自分の人生の中で起こった出来事を――すなわち、この世の強者たちに従ったり、抗ったりした時のことを――「信仰」をもって尋ね、調べてみればいい。そうすれば、本にすぎない聖書をアカデミックに研究するよりもずっとずっと正確に、「書かれた意図」にまでたどり着くことができるだろうから。
同様に、
「くもの糸は着物にならず、その織物で身を覆うことはできない」とは、
ある種の人々の提供する「着物」を購入して、その身にまとってみたところが、それは「まともな織物ではなかった」ということである。
これはたとえば、使徒パウロの言葉を借りるならば、「切り傷にすぎない肉の割礼」のことである。
またたとえば、私がいつもいつも批判している、「水槽に沈められるだけの教会のバプテスマ」のことでもある。
要するに、「これがしるしだ」とか、「これが救いだ」とか、「これが正しい生き方だ」とか、ある種の人々が思い込み、主張し、あまつさえ強制するような「着物」をもってしては、「身を覆うことはできない」、つまり「罪を赦されることがない」ということである。
むしろ、そんな着物は「災い」ですらある――なぜならば、それを織った人々の手には「不法の業」があるから、と。
それゆえに、「彼らの足は悪に走り、罪のない者の血を流そうと急ぐ...」というふうに、文章が継がれているのである。
はっきりとはっきりと断っておくが、これは私だけの独特の、独自の、独善の意見というわけではけっしてない。
「聖書はわたしについて証するものだ」と言った、ほかならぬイエスその人が地上に生きていた頃に、語られていることでもあるから。
いわく、
「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」、と。
『マタイの福音書』の該当箇所では、イエスはこのような言葉を七回もくり返している。
しまいには、
「蛇よ、蝮の子らよ…」とさえ言って、ある種の人々を非難している。
さらには、
「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ…」とまで口を極めて、ある種の人々を突き放している。
これは単なる偶然だろうか――?
「あなたたち偽善者は不幸だ」とイエスに評された「律法学者たちとファリサイ派の人々」が、
現代における、聖書のアカデミックな研究に熱心な人々や、「教会」なんぞで「アーメンごっこ」や「ユダヤ人ごっこ」に日夜いそんしんでいる「クリスチャン」たちの様相に、とてもとてもよく似通っているように見えるのは――。
また、これは単なる低俗な陰謀論の類だろうか――?
「預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ」とイエスに言われた「エルサレム」が、
現代における、同じような名をした地上のある都のことのように思われてならないのは――。
イエスはまた、「律法学者たちとファリサイ派の人々」を指して、「ものの見えない案内人」とも呼んでいる。
「盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう」という言葉の通り、そんな 「ものの見えない案内人」によって、かつて私は「教会」に通わされ、「聖書」をアカデミックに教えられ、「クリスチャン」たちとは無益な交わりを強いられ、「ヘブライ語」を練習させられ、「食べ物の規定」を守らされ、「定めの祭り」を祝わされたりした――
はっきりとはっきりと言っておくが、そんないっさいが「くもの糸で織られた着物」であり、
そんなすべてが、まともに身を覆うこともできない、「災いの着物」であった。
「人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。」
という言葉の通りに、「彼ら」はふるまっていた――これはわたしの神の御前で、はっきりとはっきりと断言できる私の体験である…!
だが、「彼ら」には、それが分からない――
なぜならば、ある種の人々は「盲目」であり、あるいは「偽善者」であり、あるいはまた「確信犯」であるがゆえに、彼らは彼らの集会において、彼らの行いを正しいものと思い込み、主張し、あまつさえ強制しているからである。
しかししかし、
「実は、彼らはユダヤ人ではなく、サタンの集いに属している者どもである」――。
つづく・・・