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アブラハムの子孫とは、キリストのことである ②

それでは、メシアたるイエスが、(外見上の)ユダヤ人たちの手によって殺された理由とは、いったい何であったのか?

禅問答のように聞こえるかもしれないが、それはイエスが「内面がユダヤ人である、ほんとうのユダヤ人だった」からである。


もしもイエスが、「外見上のユダヤ人」としてこの地上に現れただけであったならば、迫害されることもなく、排斥されることもなく、殺されることもけっしてなかったに違いない。

もしもイエスが、当代の(外見上の)ユダヤ人たちの、「待ち焦がれていたようなメシアであった」ならば、「ユダヤ人の王」として、あまねく歓迎されていたに違いない。

もしもイエスが、バビロンやアッシリアといった帝国による血も涙もない侵略と捕囚に耐えてきた、(外見上の)ユダヤ人たちのために「新しい王国」を再建し、侵略という歴史に報復し、捕囚という恥辱の身分から解放してくれるようなメシアであったならば、「イエスはキリストである」と、すべての人間からハレルヤされていたに違いないのである。


分かりやすく言うならば、こういうことである。

当時、(外見上の)ユダヤ人たちを支配していたのは、ローマ帝国だった。

そして、(外見上の)ユダヤ人たちが待ち望んでいたメシアとは、ローマ帝国の支配から、自分たちを解放してくれる英雄的存在であった。それがすなわち、「神の約束」であったから。

ところが、そんな「神の約束」によって、自分たちの目の前に現れた「英雄」とは、イエスその人だった。まあ、端的に言ってしまえば、「まさかまさか、こんな奴が…!」としか思えないような、ただの一青年だったのである。


想像してみれば分かるだろう。

もしも我が国が、アメリカとかチャイナとかいった国々に侵略されて、先祖たちは皆ことごとく殺され、捕囚にされて、今なお、かつて天皇の住まう皇居のあった所に大統領か国家主席なる存在がふんぞり返って居座り、政治も経済も社会も法も、要の部分についてはすべて日本人には不利になるように出来上がっていたとしたら、どうだろうか。

たとえばそのような不義や不当や不正やを、何百年もの間、「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」続けて来た人間たちは、恒常的に、いったいどのような精神的位相を強いられていたことになるだろうか――

ほんのすこしばかりの想像力をもって考えてみれば、容易に分かるはずだ。

そう、「ルサンチマン」な位相を強いられていたのである。

それゆえに、このような文章を書いている当の私だって、当時の(外見上の)ユダヤ人たちとまったく同じ環境に置かれていたとしたら、まったく同じ精神的状態となっていたに違いない。

そして、まったく同じ「メシア」をば待ち望み、もしもその「メシア」が福音書に描かれたようなイエスだったことを知った日には、――ああ、はたして私は、どのような選択をしていただろうか。

その時になってみないことには分からないだろうが、

今でも、ひとつ言えることがあるとしたらば、たとえばペトロのように、「鶏が鳴く前に三度、イエスのことなんか知らない」と言ってしまったことくらい、実にもって愛すべき逸話であるということだ。

もしも私が、時の(外見上の)ユダヤ人の祭司、レビ人、長老たちのような立場にいたとしたならば、イエスを裁判にかけて、平手で打ったり、こぶしで殴ったり、唾を吐きかけたり、茨の冠をかぶせたり、葦の棒で頭を叩いたり――そんなことは決してしなかったと言い切れる自信など、まったくない。

むしろ、その逆の、イエスを十字架にかけて殺していたという選択の方をしていたのではないか――とならば、「より容易に」想像できる。

なぜか?

だってもしも、どこぞの大馬鹿としか言えないような大統領か、うすら馬鹿としか形容しようのないような国家主席なんぞが、かつての皇居の椅子の上に座ってふんぞり返り、そんな馬鹿の三下でしかないような異民族どもが、自分よりもあらゆる面において露骨に優遇されている(想像上の話として書いていながら、なにゆえに、こうもリアリティを感じるのだろうか…?)――そんな社会に生かされていたとしたならば、よっぽどの聖人君子でもないかぎり、心が「ルサンチマン」に陥らないはずがないではないか。



自分のことばかりでなく、たとえば、現代社会の、教会なんぞにたむろしている牧師や神父やクリスチャンなる人物たちのことについても、容易に想像がつくというものだ。

もしも、現代の牧師や神父やクリスチャンなる人間たちが、かつて、イエスの生きた時代に生きていたとしたならば、彼らのような者たちこそ、まっさきにイエスを迫害し、排斥し、あげくのはてには殺していたに違いないと、ほとんど確信に近い自信をもってそう言える。

なぜならば、現代の牧師や神父やクリスチャンのような者たちこそ、当時の祭司やレビ人や長老たちの姿そのものだったのだから。

これだって、まるで根拠のない類の話なんかではなく、想像してみれば分かるというものだ。

もしも今のこの時代に、かつてのように「人間イエス」がやって来たとしたら、まず間違いなく、イエスは殺されていた。それも、「教会ごっこ」や「クリスチャンごっこ」をしているような輩の手によってこそ、殺されていたに違いない。

なぜならば、もしもイエスが現れたその日には、誰も「教会」なんか、行かなくなるだろうから。

「教会ごっこ」も「聖書ごっこ」も「クリスチャンごっこ」も、誰も見向きもしなくなって、その結果、誰からも「献金」を「投げ銭」してもらえなくなるだろうから。

そうやって、牧師や神父たちは用済みとなり、失業し、教会はボロボロになって崩れ落ち、伝道ごっこも宣教ごっこも不要となる。――そうなった暁には、例えばパウロのように「自分の手で稼ぐこと」ができない、「献金におんぶにだっこ」していた「無能な牧師や神父たち」は、「食っていけなくなる」のである。

さあ、そうなった時に、彼らがどのような行動に出るのか…!
経験的に断言できることは、まず間違いなく、「失業した」数多の牧師や神父たちは、「イエスの迫害」を始めることだろう。なぜならば、彼らの生活の立ち行かなくなったのは、「イエスのせい」なのだから。

――2000年前に、イエスが殺されたのは、「祭司」や「レビ人」たちが、社会が(自分たちが)そういう状態になってしまうのではないかと、「恐れ」を抱いたからにほかならないのである。

それゆえに、「人間イエス」を殺すに違いないと分かっている牧師や神父なんぞに、どうして「献金」してやる必要があろうか。

金が必要ならば、自分で稼いだらよかろう。毎日毎日、偉そうに、さかしらに、したり顔をしながら、ローマ書やコリント書からの引用をくりかえしているのならば、それをしたためたパウロのように、「無報酬にて、福音を述べ伝えて」みせよ。

それができないのなら、「ほんとうのユダヤ人イエス」がやって来て、「用済み」となり、「お役御免」となった暁に、「それでもイエス様についていきます」と言い得るのか、――上っ面の言葉なんかではなく、たしかな力を持って示してみせよ。

上っ面の言葉にさえ力も無く、生活の資を稼ぐ力もない、――たとえばその程度の「人間力」で、いったい何ができるというのか。

教会がなくなった時、自分を慕ってくれる信者も、支持者も、仲間も、そんな誰一人としていなくなった時――さながら、十字架上のイエスのような状態になった時、この世の「クリスチャンごっこ」なんかをしている人間に、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫ぶことも、「父よ、我が霊を御手に委ねます」とも祈ることも、ほんとうにできるのだろうか。

現代の教会の牧師や神父たちと、その取り巻きたちこそ、まっさきに「ほんとうのユダヤ人イエス」を殺すだろう。(殺すという言葉がお嫌いならば、見殺しにする、見捨てる、離れ去る、でもいい――まったく同じ行為なのだから。)歴史はくりかえす、という格言からかんがみても、それはまずもって間違いない。


それゆえに、

こんなことを書いて、私はまたしても、「教会ごっこ」や「クリスチャンごっこ」を批判したいのだろうか?

そうではない。

私のもっとも言いたいこととは、当時の(外見上の)ユダヤ人たちの立場を想像すれば、

「内面がユダヤ人だったイエス」が殺されたのには、「現実的な、あまりに現実的な」理由があったのだ――という点の方である。

イエスは十字架上で、この世の支配者、すなわち、悪魔的な、超自然的な存在と対決したのだ――とかなんとかいう話の前に、イエスが殺されたのには、「地上的な、あまりに地上的な」経緯があったのである。

それはまた、「政治的な、あまりに政治的な」話でもあり、ひいては、「人間的な、あまりに人間的な」理由だったのである。





つづく・・・

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