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明日に備えよ、自らを聖別せよ


――
鬨の声をあげよ。主はあなたたちにこの町を与えられた。 町とその中にある
ものは、ことごとく滅ぼし尽くして主にささげよ。…
あなたたちはただ滅ぼし尽くすべきものを欲しがらないように気をつけ、滅ぼし尽くすべきものの一部でもかすめ取ってイスラエルの宿営全体を滅ぼすような不幸を招かないようにせよ。 金、銀、銅器、鉄器はすべて主にささげる聖なるものであるから、主の宝物倉に納めよ。
――


このように、荒野の旅を終え、ついに渡ることを得たヨルダンの向こう側にあって、

あまりに有名なエリコの城壁を崩壊させ、壁の中の町を占領するための戦いに出陣したイスラエルの民であったが、

そんな彼らのために、指導者たるヨシュアの口から、事前にはっきりと主なる神の言葉が告げ知らされていたにも関わらず、

例によって例のごとく、四十年に及んだ苦難の旅を経てもなお、不信仰にして不従順なる行動の大好きなイスラエルたるや、

神の言葉のとおりに行うことなく、アカンなる者にして「滅ぼし尽くしてささげるべきものの一部を盗み取る」という愚行に及んだ。

まったくもって、いかにもイスラエルらしい、いつものお決まりのパターンだと言ってしまえばそれまでなのであるが、

ここでもっとも重要なひとつ事とは、このイスラエルの不信仰に対し、神はあらためて「徹底した怒り」を見せつけた、という一点である。

いわく、

「イスラエルよ、あなたたちの中に滅ぼし尽くすべきものが残っている。それを除き去るまでは敵に立ち向かうことはできない」

くわえて、

「もし、あなたたちの間から滅ぼし尽くすべきものを一掃しないなら、わたしは、もはやあなたたちと共にいない」、と。

この時の、イスラエルの民の内訳について述べるならば、男だけで約六十万もの大群衆であり、それはまた、長日月に渡り、荒野をさすらい続けて来た軍隊であった。

さりながら、

たとえそのようなおびただしい数を誇る、戦士の群れであれなんであれ、

「イスラエル」とは、周辺の国々に比べてより力強く、とりわけて秀でた民族であったという事実はけっしてなく、

むしろ、「あなたよりも大きく強い国々を追い払おうとしている。町々は大きく、城壁は天に達し、 民は、あなたの知っているアナクの子孫で、大きくて背が高い」

という、申命記の言葉ひとつを取り上げてみてみた時にも、あえて悪しざまに言ってしまえば、いかに神の選民だなどとうそぶいてみせたところが、ただそれだけでは実に弱弱しく、みみっちいばかりの「烏合の衆」たるにすぎなかったわけである。

にもかかわらず、

エリコの町へ探りを入れた時から、すでに城壁の内側の住民たちが皆「恐怖に襲われ、おじけづいていた」のは、いみじくも、遊女ラハブがイスラエルの斥候たちに語ったとおりに、「主がこの土地をあなたたちに与えられたこと」を聞き及んでいたからであり、

かつ、イスラエルがエジプトを出たとき「主が葦の海の水を干上がらせたこと」や、ヨルダンの向こう側で「シホンとオグを滅ぼし尽くしたこと」を知らされていたがそのために、「心が挫けて」しまっていたからである。

つまりは、

ヨルダンを渡った先の敵たちは皆、「主なる神をこそ恐れていた」のであって、イスラエル民族そのものを恐れていたわけでは、けっしてなかった。

これは、大変に大変に重要な一点であり、それから三千年以上の時を経た当世においても、まったく変わらない真実である。

かく言う私においても、エリコの住民たちと同様、「恐いのはただ神だけ」であり、イスラエル民族なんか、すこしも恐くもなければ、ついぞ恐ろしいだなどという考えが、頭のかたすみをよぎったためしもない。

はっきりとはっきりと言っておくが、

いつもいつでも、いつまでも、恐れ畏れるべきは「主なる神ただひとり」であって、イスラエルとかユダヤとかいう「地上の民族」なんかでは、けっしてない――そんなことが、あってはならない。

あってはならないはずなのに、自称アブラハムの系図的子孫なんぞが寄り集まったばかりの国家だの宗教だの軍隊だのをことさらに、「欲しがる」がごとくに支持する教会だ宗派だ教義だのいう類のシロモノが今日もまた、巷を横行跋扈し、大手をふってのし歩いている――

バカだ、アホだ、トンチンカンだ、マトハズレだと、それ以上になによりも、それすなわち「死に至る罪」であるというふうに、いったい何度くり返して来ただろうか…。

しかし彼らは、永遠に悟ることがない。

なぜとならば、彼らは皆、「主にささげる聖なるもの」をば己のための金目の物として掠めとり、けっして主なる神に捧げようとしない「アカン」にほかならないのだから。


それゆえに、

このような、荒野の旅の終わる前から、いや、荒野の旅の始まる以前から、いや正しくは、アダムが善悪を知る実を口にしたその瞬間から、すでに預言のなされていたこの体たらくについて、

私は自今、あらゆる偽預言者や偽りのユダヤ人たちについて述べる時には、

「全イスラエルはアカンに石を激しく投げつけ、彼のものを火に焼き、家族を石で打ち殺した」

と書かれてある通りに、彼らを「大淫婦バビロン」ばかりでなく、「アカン」にもなぞらえながら、書くこととしたい。

今までもそのようにして来たつもりであったが、さらに、いっそうの信仰をもって、そうしたい。

それゆえにそれゆえに、

もしも、偽預言者や偽りのユダヤ人たちが私の同胞であったとしても、

またもしもしも、彼らが私の肉の家族であったとしても、私は一片の憐れみもかけることがない。

すべて、「アカンなる者」どもとは、もはや弁解の余地はなく、言い逃れもできず、それゆえに、一片の憐れみもかけてならず、徹底的に徹底的に「滅ぼし尽くされねばならない」からである。

もう一度、はっきりと言っておく、

たとえば、「主なる神」ではなく、イスラエル民族を恐れているような偽預言者とは、

また、「聖なるもの」を金目の物とみなして掠めとっては、主なる神にささげようとしないアカンのごとき偽りのユダヤ人とは、

たったの一片の憐れみもかけてはならず、「ことごとく滅ぼし尽くして、主にささげ」なければならないものなのである。


それゆえに、

我が魂よ、強く、雄々しくあれ。

ただ強く、雄々しくあれ。

もしも、滅ぼし尽くすべきものがわたしの中に残っているならば、それを除き去るまでは敵に立ち向かうことはできず、

滅ぼし尽くすべきものを一掃しないなら、イエス・キリストも、父なる神も、聖霊も、もはやわたしと共にいない。

我が霊よ、強く、雄々しくあれ。

ただ強く、雄々しくあって、わたしの中から、滅ぼし尽くすべきものを一掃せよ。

聖別せよ。

明日に備えて、自らを聖別せよ…!


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