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神の心(あきらめない)

『天上天下唯我独尊』という文章の中で書いたことだが、

「昨日よりも良くなった」という手応えだけが、自分を何度でも立ち上がらせてくれる。

そして、

「今日よりも良くなりたい」という思いだけが、自分を何度でも立ち向かわせてくれる。

そんなことを、この一年ばかり、いや、ここ数日ばかりの間だけでも、いったいなんど、私は「この身をもって」、経験して来たことだろうか。

だからある時、

ふと、気がついた。

「あれ、俺はいままで、気づかずに、「わたしの神と顔と顔を合わせて出会っていた」じゃないか」、と。…


「昨日よりも良くなった」という声が、私の中でこだまするのは、きまって、私が、もうダメだと、あきらめてしまった時だった。

「あきらめてしまった」私が、同じ私に向かって、そんなことの言えたはずもない。

かりに、「あきらめてしまった」私が、「もうダメだ」と投げだしてしまった私に向かって、「それでもお前は、昨日よりも良くなっている」と言ったところで、それがなんだろう。どうして、「倒れた私」の声にもならないような声なんかによって、立ち上がる力をば得られよう。

だれかが、「あきらめの悪い」だれかが、「絶対にあきらめない」だれかが、「私よりも強い」だれかが、「すでに倒れてしまった」私に向かって、「たしかな声」をもってそう言ってくれたからこそ、私はもう一度、立ち上がることができたのである。

だから、「昨日よりも(あるいはひと月前よりも、あるいは一年前よりも、あるいは十年前よりも)、良くなった」などと言ってくれるのは、私の中の「わたし」の、さらにそのかたわらに居る、「だれか」でしかない。

その「だれか」だけが、なんどでもなんどでも、「血反吐を吐きくだして倒れてしまった」私の腕を取り、肩を支え、足を立たせて、「ふたたび前へと進ませる」のである。…


神には、色々な名前がある。

「アドナイ…なんちゃら」とか、「エル…なんちゃら」とか、「ヤハウェ…なんちゃら」とかいう、呼び名みたいな、通称みたいな、あだ名みたいな、「名前」である。

『はてしない物語』において、「幼心の君」がバスチアン少年に求めたものとは、「新しい名前」だった。ついに「顔と顔を合わせて」出会った「幼心の君」に、バスチアン少年が懇願されたこととは、「幼心の君」に「新しい名前」を与えてほしいというものだった。

別に、そんな「おとぎ話」になぞらえるつもりもないが、

私は「わたしの神」に、「しつこい」とか、「あきらめの悪い」とか、「ぜったいにあきらめない」とか、そういう「名前」をも与えてあげたいと思う。もしも、「幼心の君」のように、「新しい名前をちょうだい」と、神から頼まれたなら。

なぜなら、私は、そんな「しつこい」神を知って、

「憐れみ深く」や「慈しみ豊かで」という神の名前を、より深く知り、

「インマヌエル」という神の名前を、より深く知り、

「イエス・キリスト」という神の名前を、より深く、この身をもって知ったから。


もう何度も何度も、書いて来たことだが、私はありとあらゆる「教会ごっこ」、「聖書ごっこ」、「ユダヤ人ごっこ」、「レビ人ごっこ」、「伝道ごっこ」、「奉仕ごっこ」、「クリスチャンごっこ」、「アーメンごっこ」、「ハレルヤごっこ」…に、ヘキエキとしてきた。

それが聖書の中の人物であれ、誰であれ、「ヒトサマが出会った神」や「噂に聞いた神」など、――あるいはまた、「ユダヤ人イエス」など、いくら聞こうが学ぼうが、どこまでいっても、「参考」にしかなりえない。

そんな「参考」をば、どんなにか真面目に、真剣に、真摯に「お勉強」し続けてみたところが、――何千年、何千年、何千年、そんなことを継続してみたところが、たった一日の「わたしの神」との邂逅の方が、ずっとずっとずっとずっと、「神との関係を築き、深め、続ける」ことになる。

人間はみな、同じようでありながら、ひとりとして「まったく同じ人物」などいはしない。

同じような人生でありながら、ひとつとして「まったく同じ人生」などありはしない。

そんな当たり前の事実から考えてみても、「ヒトサマの神」が、「わたしの神」と、たとえ「同じ神」であっても、「違う顔」を見せることもまた、当たり前ではないか。

聖書的に言ってみても、たとえばモーセの神と、ヨブの神は、同じ神でありながら、違う顔を見せていることくらい、読めば分かる話ではないか。モーセとヨブは違う人間であり、モーセとヨブとはそれぞれ異なった人生を送ったのだから。

それゆえに、モーセの「約束の地」とは、「主なる神と顔と顔を合わせて語った」旅こそであり、また「ヨブの救い」とは、「耳にしていたばかりだった神を、今、この目で仰ぎ見た」という邂逅だったのである。しかしどちらにとっても、それこそが「永遠の命」なのである。

こういう人々を「参考」にして、自分は「自分の神」と出会うことをしなかったならば、いったい何が、「永遠の命」だというのだろうか。


たとえば、「わたしの神」は、私が「ディベート嫌い」なのを知っていて、あえて「ディベートしよう(論じ合おう)」と、言って来る。

まるで、「論じ合って、オレ(神)を言い負かすことができたなら、祈りを聞いてやろう」とでも言わんばかりに。

私の人生の中に「問題」を起こしながら、そういう「訓練」をば、しようとする。

だから、しょっちゅう、喧嘩になる。私が「論じ合う」よりも、「感情的」になるから。

そうかと言って、これまで「感情的」な私に対して、神が「感情的」にならずに、あくまで沈着に「ディベート」に徹して来たのかと言えば、けっしてそうではない。

むしろ、私なんかよりも、神は、ずっとずっと「感情的」だった。

そういう「経験」から言えることは、神は、私よりも、はるかにはるかに、「感情的」な存在である、ということだ。

余談になるが、私は「わたしの神」が、この世の「ディベート好き」なバカや、「ディベートの巧拙を頭の良し悪しと信じている」バカや、あまつさえ、「ディベートでの勝敗こそが、審判や裁決や判定だと思い込んでいる」バカのようでなくて、本当に良かったと思っている。

子供の頃から、ディベート好きな外国人たちの中で、ディベートに特化したような言語を使うことを強いられて、否が応でも、ディベートの訓練を強いられてきた体験があるがゆえに、たとえばビジネスをやり出してからはじめて「ディベートを習い始めた」ような人間なんかよりも、「ディベート」のなんたるかなど、ずっとずっとよく知っている。

ディベートは「方便」であっても、それ以上ではない。ディベートの勝敗によって、「善悪」にまで判決を下しているような文化を持った国が、世界中でもっとも「戦争好き」な国である「現実」を、私は本やニュースなどを通してではなく、「この身を持って」知っているのである。そんなことも知らないで「ディベート、ディベート」とのたまうのならば、バカもバカである。もしくは「知っていてなお」主張しているのならば、詐欺師か悪党である。


話をもとに戻すが、

神が「感情的」でないかと言えば、むしろ、私よりも、はるかにはるかに、「感情的」な神である。

「わたしの神」が私に見せる「顔」とは、たいへんに「感情的な顔」であり、私なんかの何倍も何倍も、「喜怒哀楽に富んだ顔」をしている。

それも、たとえば「神とのディベートに勝った私が」、「話が違うじゃないか」というような「クレーム」を募らせながら、「すこぶる感情的になっている」時にこそ、私以上に「感情的になる」のである。

まるでまるで、「そんなふうに、話が違うじゃないかと言いたかった時のオレの心(気持ち)を、一度でも想像してみたことがあったか」、とでも言わんばかりに。

また、まるでまるで、「ディベートでの勝ち負け」なんかよりも、はるかにはるかに、「オレの心(気持ち)に気づいてくれることの方をこそ、オレは望んでいるのだ」、とでも言いたげに。


人間関係においても、そうではないか。

人間と人間との関係は、「議論」によって決まるのか?

「議論」の中で交わされる、「善悪」や「正邪」や「損得」や「良し悪し」や…「経済的」か「効果的」か「効率的」か「能率的」か「合理的」か…なにがしか、そのようなもので、関係が深まったり、親密になったり、心と心が通じ合ったり、するというのか?(例えば「夫婦喧嘩」なんてものは、「議論」や「ディベート」で解決するものなのか?)

もし「神」が、たんなる「ビジネスパートナーだ」というのならば、「ディベート」だけでいいのかもしれない。

しかし、そういうものに、「人間の心(感情)」よりも上位階級を与えようとするから、最終的には、「平気で人を殺せてしまう」のである。「ダビデが(その手が血に染まりすぎているから)神殿を建てられなかった」という逸話は、まことにまことに示唆に富んでいる。また、「ディベート」や「議論」の行き着く先のなんであったのか、たとえば「ユダヤ人イエス」の一生を追ってみたって、分かりそうなものである。

親と子の関係にしたって、そうである。

親がたんに「親ごっこ」をしている限り、そして、子供が「子供ごっこ」をしている限り、何が「親密な親子関係」だろうか。往々にして「問題」が起こった時にこそ、「子の心」をば親が知り、「親の心」をば子が知った時にはじめて、「親と子は分かり合える」のである。

同様のことは、例えばペットと飼い主の間においてさえ、言えることである。


このように、「論じ合おうではないか」と言いながら、神は私以上に、「感情的」になって来た。

そんな、一見、不可解で理不尽なやり取りを、私は「わたしの神」と、「この身をもって」続けてきた。

それは、しょせんヨーチな「ディベート」なんかでもなく、スカスカな「ごっこ」でもなく、へベルな「ビジネス」なんかでもなかった。

私は、「己の命をかけて」、「わたしの神と対決して」来た。

だからこそ、なんどもなんども、私は「もうダメだ」と思わされて来た。

「はなはだ感情的な」「わたしの神」とあいまみえる時、私は往々にして、「投げ出して来た」。

「感情的な物の言い合い」を経験したことがある人ならば、誰でも思うことだが、「こんな奴とはトーテイ分かり合えっこない」という気持ちをば、ほかならぬ「神に対して」、抱かずにはいられなかった。

ところが、ところが、

だから、「ケンカ別れしましょう」という結末にはならなかった。

だから、「落ち着いて議論しましょう」という展開にも、ならないことの方が多かった。というか、ほとんどそうならなかった。

それゆえに、

「もう、とてもアンタとはやってられない」というふうに、私がさじを投げてしまう時こそ、

「ぜったいにあきらめない」という、「あきらめの悪い」顔を、わたしの神は見せて来た。

「しつこい」とか、「めんどくさい」という「名前」こそ、ぜひぜひ、「わたしの神」に差し上げたいものである。


しかし、

「ぜったいにあきらめない」のは、いったい、なんのためなのか?

いったい、なにを、「ぜったいにあきらめない」というのか?

ほかでもない。

「神の心を知ってもらう」こと、である。

私が「神の心を知る」ことを、神は「ぜったいにあきらめない」、のである。

なぜならば、「神の心」を知ればこそ、神と私が「分かり合う」ことができるからである。

「分かり合う」ことで、「昨日よりも良い、深い、親しい」関係を、築いていくことができるからである。(いつもいつでも、「昨日よりも良い」と言ってくるのは、そういう意味なのである。)

それでは、そんな「神の心」とは、いったい何であろうか?

それは、すべて、すべて、「イエス・キリスト」という名前に、現れている。込められている。託されている。

イエスはキリストである。

すなわち、

父なる神は、人間を憐れみたもうーー

憐れみ深い父なる神は、イエスを復活させたように、人間を復活させたもうーー

という「心」である。

イエスがキリストであることを知ってもらうためならば、神はどんな事でもする。

そして、ぜったいに、ぜったいに、ぜったいに、あきらめない。

少なくとも、「わたしの神」は、そういう神だった。

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