ヨハネの洗礼、キリストの洗礼 ③
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あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。 キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。 クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています。 だから、わたしの名によって洗礼を受けたなどと、だれも言えないはずです。 もっとも、ステファナの家の人たちにも洗礼を授けましたが、それ以外はだれにも授けた覚えはありません。 なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。
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それゆえに、
私は当初、この文章をもって、使徒言行録が巧みに対比させている「ヨハネの洗礼」と「キリストの洗礼」とを、順序立てて説き明かしてみようかと考えていた。
が、”霊”に感じてはっきりと言うものだが、そんなツマラナイ文章のためには、一滴の汗をも流すべきではないと思い直した。
もしもどうしても、たかだかこんなことの違いも分からないで右往左往している者や、使徒行伝の文字の中だけであっても「あっちだろうかこっちだろうか」というふうにさ迷ったりする者のいるのならば、そういう者たちに対しては、かつて「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ…」と言っていた輩のような、「教会のバプテスマを受けなければ…」とのたまっている連中らが、説き明かしてくれることであろう。
それゆえに、
『聖なる神、熱情の神』という文章にも綴ったことであるが、いかなる宗派でも教義でも神学でも、もしもあなたにあってそれらを信奉したいと願うのならば、今日、自分の好きなものを選び取って、その旗下の教会へと歩いていけばいい。
しかし、このわたしと、わたしが信仰によってすでに知る「あなた」とは、いつもいつでもいつまでも、わたしたちの神イエス・キリストと父なる神とに聞き従います――。
すでにどこかで書いたことのあるように、かく言う私とてまた、かつてうら若き少年時代にあって「ガキの水遊びにも如かない教会のバプテスマ」を、この身に受けたことのある者である。
ものの見事に騙されて、欺かれて、金も心も時も機会も盗まれて――あやうく、命そのものまで盗まれそうになりながら――某キリスト教会の水槽の中に沈められ、同教会を牛耳っていた偽預言者と偽りのユダヤ人たちと、あるいはクリスチャンとかいう名をもって呼ばれている生粋のバカたちによって、その日をさながら誕生日のように祝っていただいたことも。
さりながら、
そんなことをば自ら進んでやってみた所が――神学校をご卒業されてこの方何十年もゴリッパに伝道活動を続けて来られた牧師様から、按手をばしていただいた所が――自らの唇をもって「イエス・キリストは私の救い主です。父なる神が死者の中から復活させたことを信じます。イエス様がふたたびこの世界に帰って来て、わたしたちのための救いを完成させてくださることを信じます。イエス様の十字架の死によってわたしのすべての罪が赦されたことを信じます。感謝します。アーメン」だなどと告白してみたところが――
そのようないっさいがっさいが、マトハズレの極みであり、肉的霊的いずれの救いにもしるしにもなりえず、したがって教会の洗礼などガキの水遊びどころかむしろ嘘の、偽りの、欺きの、毒性のバプテスマでしかなかったのである――
と、ここにあらためて、わたしの神イエス・キリストと父なる神の憐れみと慈しみによって与えられた聖霊によって、はっきりとはっきりとはっきりと書き記しておくこととする。
それゆえに、
もしも使徒言行録を読んでみても、ヨハネの洗礼とキリストの洗礼の違いが分からない者がいるとすれば、神の憐れみによって言うのだが、上のパウロの一節「なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは…」に込められた彼の思いに感じながら、よくよく考えてみればいい。
それでもなお、たとえば「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができすますか」などというペトロの言葉を聞いて、水の洗礼とヨハネの洗礼と、聖霊の洗礼とイエスの名による洗礼との違いを悟ることなく、
あるいは、そのように言った当時のペトロの心情に共感することがないために、かつてのうら若き少年時代の私のように、宗派教義神学の類を「福音」のごとくうそぶくクリスチャン一味にたぶらかされたまま、ヨハネの洗礼も聖霊の洗礼も「教会のバプテスマ」に繋がったものであるだなどと思い込み続けるのならば、
ああ、どうぞご勝手に…。
そんなにも、あなたのしたいと願うことについて、どうしてこのひと言以外の言葉をかけたりすることができようか――。
がしかし、
がしかし、すでに信仰によって出会っている「あなた」に向かってだけは、私はかく言うものである。
すなわち、
『イエス・キリストの黙示』や『棘と愛』という文章でも語ったように、私の身に教会のバプテスマを授けたり、それを祝ったりしたぐらいで、「イエス・キリスト」を伝道したような錯覚に陥っている者どもとは、たとえば聖書の解説においても、この私に見劣るものしかできないような、うつけの中のうつけ野郎様でしかないと。
たとえば、
『ヨブ記』において、最後に主なる神が嵐の中で「ヨブに答えて言った」とはっきりと書かれてあるのに、彼らは、主なる神はヨブの問いかけに最後まで「答えていない」だなどと、平気でうそぶいて恥も外聞も知らない、小学生以下の読解力を勝ち誇ってみせる大馬鹿者である。
あまつさえ、
たとえばべヘモットとは河馬のことであり、レビヤタンとは鰐のことであるとか――いや、べヘモットもレビヤタンもかつて地上にいた恐竜のことであるとか――いや、ヘブライ語ではべヘモットとは動物の複数形のことで、レビヤタンは渦を巻いたものという意味であるとか――いや、べヘモットもレビヤタンも、この地上世界における危険と無秩序の象徴のことであるとか――いや、べヘモットもレビヤタンも神の力と知恵の体現であり、人に過ぎないヨブとの圧倒的な差について語っているのだとか――いや、その全部が正しいのだとか――
おおよそ、だからどうした、それがなんだ、そんな話がどうして「ヨブに向かって答えた」という事となるのかという、そんな下等かつ劣悪な「ご解説」しかできていないにもかかわらず、それでもなお、そんなものをもって、ヨブのように喫緊の救いを求めて苦しんでいるような人々からも当然のごとく献金をせしめ取っている、恥ずべき忌むべき唾棄すべき偽教師なのである。
あるいはまた、
ヨブ記とはキアスマス構造をもって書かれた高度な文学書であって、その構造の中心たる「わたしは知っている、わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう」というヨブのひと言こそが”山頂”なのだとか――キアスマスとは聖書の随所に散見されるユダヤ的レトリックなのだとか――
それならば、そんなレトリックによって、主なる神はいったいどのような心情で「ヨブに答えた」というのか、それをこそ「解説」できていないでいながらも、たかだかキアスマスごときを発見したぐらいで、鬼の首でも獲ったかのように見せびらかし、カルメル山ならぬバカ山の山頂にて踊り狂う偽預言者たちなのである。
がしかし、この私は違う。
そして、まだ見ぬあなたもまったく違う。
私たちは、聖霊という信仰によって聖書を読み、信仰という聖霊によって自分の人生を生きて来たのであるから、
たとえば、べヘモットとレビヤタンを語ることを通しても、主なる神がそれらによってほんとうは何を語ろうとしているのかを、すなわち、その時のイエス・キリストの心情のなんであるのかを、知っている。
わたしたちと、海辺の砂のような偽預言者たちとの違いとは、そんな神の心情を自分で食べて自分で味わい、自分の耳で聞き分けて自分の目で見つめ、さらには自分の心身をもって聞き従って来た――ここにこそあるのである。
それゆえに、
わたしたちは、べヘモットの尾や骨組みについての叙述からも、たとえば「わたしは主である」という「文句なしの救い」を掬い取ることもできれば、
レビヤタンのくしゃみやまばたきの描写からも、「あなたの信仰があなたを救った」という、「真実の憐れみ」たるイエス・キリストの黙示まで、はっきりとくっきりとしっかりと見つめ、握りしめることもできるのである。
ちなみに言っておくが、こんなことを言っているこの私は、かつてのペトロやヨハネでもないが、いかなる神学校はおろか、ろくすっぽ大学すら出ていないような無知無学無教育無教養な凡人にすぎない。
さりながら、
そんな凡人以下の私なんかでも、苦しみに苦しみぬいたヨブもまた、イエス・キリストの回答を握りしめ、主なる神からたしかに答えてもらったことに感じ入り、心を感動で満たされて、「わたしは今日、この目をもってあなたを見ました」と言ったまさにその時にあってこそ、
私やあなたと同じ聖霊による、同じバプテスマをその身に授けられたのだということが、はっきりと理解できるのである。
それゆえに、
「良い木からは良い実、悪い木には悪い実」という言葉の通り、いかに賢しらに、それらしい「聖書解説」なんぞを披露してみせようとも、
彼らの知るヨブ記とはただの偽物でしかなく、私たちの知るヨブ記こそが本物である。
同様に、
この世のユダヤ教キリスト教の慣習たる「教会のバプテスマ」とは、冒頭にイエスの言った「聖霊による洗礼」とは完全に異質のものであり、
また、彼らによる按手など、ペトロやパウロが行った按手とはおおよそ似て非なるものであり、
さらには、彼らによって構成され、継承されて来た現代の教会とは、使徒言行録に描かれた初代の教会とは、絶対的な別物なのである。
その明確な証拠としても、神の霊感に感じて数多の手紙を書いたパウロは当初から、この現代の教会なるものの体たらくについて、予見していた。
すなわち、くだんの「キリストはいくつにも分けられてしまったのか」という一節によって、今現在において、まさにまさしく宗派だの教義だの神学だのによって分裂し、醜く、卑しく、浅ましくバビロンの富を奪い合っているユダヤ教キリスト教の醜態を、あらかじめ批判したのだった。
だから、まさにまさしくこの私などは、パウロの感じた同じ聖霊に感じて、彼のような生き方に倣っているばかりなのである。
くり返しておくが、古代において、ヨルダンの川の向こう側にもこちら側にも様々な神々がいたように、
ユダヤ教キリスト教の世界の向こう側にもこちら側にも種々多様なる偶像が存在している――すなわち、宗派教義神学のご解説ならば、御覧のとおり、巣穴の中の蛇のごとくひしめき合い、年々その数を増し加えていっている。
だから、もう一度言っておく、
あなたはあなたの心の望むものを選好し、それに聞き従うがいい。
しかし、この私とまだ見ぬあなたとは、ただただイエス・キリストだけを聞き分けて、父なる神にのみ聞き従います――
なぜとならば、キリストがパウロを遣わしたのは洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであったように、
また、使徒行伝が書き残されたのは、それを読んだすべての読者がヨハネの洗礼ではく、聖霊による洗礼を探し求め、願い求めるようになるためであったように、
この私とまだ見ぬあなたのなすべきこととは、ヨハネの洗礼とキリストの洗礼の「違い」なんぞを説き明かすことではなく、
ただひたぶるに、
イエスの名による洗礼を通して聖霊を与えられ、その結果、”霊”の声を聞き分けて、聞き従うようになることとは、いったいどういう生き様のことを言うのかを、自分自身の身をもって履行することにあるからである。
つづく・・・