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友よ、我が霊とともに...


――
主をほめたたえよ。
イエス・キリストの新しい歌をうたえ。
聖徒のつどいで、父なる神の栄光を歌え。
――


友の訃報が届いた。
わずか数日前のことだった。

もう何年も会っていなかった。
ために、彼がどんな顔をしていたのか、よく覚えていない。

もう何ヵ月も話してもいなかった。
ゆえに、最後に交わした言葉の何であったか、それも忘れてしまった。


今から百年以上前、北大西洋の沖合に、一隻の貨客船が沈んだ。

神にさえ沈ませえないとまで謳われた世紀の巨船にして、いともあっけなく沈没させられてしまった力とはどこにあったのか――

それは、自然の脅威でもなく、抗いがたき運命でもなく、その他のいかなるなにものでもなく、ただひとえに、これまで幾度となく歴史が証明し続けて来たところの、”かたくなな人の心”にあった。

後世の歴史家たちは、そんな、まことにとらえがたく病んだ人の心に"Bad seamanship(独善的シーマンシップ)"という、より正確な名前を与えた。

それから百年以上の時が下った数日前、私が友人の死の報せに接したのと前後して、一隻の潜水艇が、かの巨船と同じ場所、同じ理由で永久に浮上する術を失った。

私の心は、このニュースに触れて、強い印象を受けた。
すぐさま、”Immature enterprenuership(未熟な企業家精神)"という名が、おのずから浮かんで来た。

そしてしばしの間、ただ言いがたき情感に胸を焼かれた。

私の心は、きっと知らなかった。

ふたつの歴史的な、恥ずべき名の下で、永遠に一条の光さえ差し込まない、暗く冷たい海底に沈んでいった顔も名前も知らない人々の魂にむかって、たむけるべき花々を、私の心は永久に知ることはなかった――

もしも数日前、我が友の死に触れることのなかったならば…。


私の友は、不治の病に冒されていた。
それを彼自身の口から告げ知らされたのは、十年以上も前のことだった。

あと五年、と宣告された彼は、けっきょく、その倍以上を生きた――生きながらえた。
残され、与えられた余命の中で、いかなる日々星霜を閲してきたのか、私には分からない。たぶんずっと、「分かる」ことはない。

それでも、

真の芸術とはエンタテイメントでないことを、天稟の肌において知っている、まことの芸術家たる私の使命とは、それを尋ね、探し、調べ、知り――

我が友以上にそれを知りつくすべくして知りつくし、描ききることにある。

なぜとならば、それこそが、私の心がにぎりしめた、「海底に沈んだ魂たち」にむかって、たむけるべき花々であるからである。

取るに足らない、さながら塵のようにちっぽけな孤独な魂の生と死とを、芸術として昇華させること――

それは、この時代に生まれ、この時代に生き、この時代の「タイタニック」に殉じて死んだ友のかたわらで泣き、笑ったことのある私にしか、書くことも描くことも許されていない物語である。

はっきりと言っておく、

その者が私以上の生得的才能に恵まれ、私以上の研鑽にたゆむことを知らず、私以上の知識と手法に精通し、私以上の技術を体得しえた人間であろうとも、

そしてその者が私以上に友を愛し、友からも愛された者であったとしても、

けっしてけっして、私以上の文章をもって、物語をもって、真実をもって、感動をもって、夢よ希望をもって、友の生と死を描ききること能わない。

それは、

私のように彼の側に居たことのある者たちの中で、

私以上に神から愛されている者は、

けっしてけっしてけっしていないからである。



ただ神だけが、神の思いを知るように、

ただ神だけが、人の心の深みを知り、究めることができるのである。

その神の顔をば、自分の目をもって見つめた人間など、彼の周囲には、私をおいてほかにいなかった――

その神の秘密の名をば、自分の耳で聞いた人間も、私をおいてほかにいない、絶対にいはしない――

私はそれを信仰によって知っており、同じ信仰によって、その真実を芸術として書き下そうというのである。

そんな信仰を与えられた者など、いかに広くはてしのない地上世界といえども、この私以外に、ただの一人もいはしないのである。

それゆえに、この仕事はただただ私だけに託された、ほんとうの使命であり、偽りのない召しなのだ。

そこには、今は、口にするもの汚らわしいとさえ思われてならない、わたしの神、イエス・キリストが私に与えた、ほんとうの「神の思い」がこめられているからである――。


だが今は、私は神が憎くてたまらない。

いかにイエス・キリストを、父なる神を、聖霊を、憎んでも憎んでも憎んでも、憎みたりない。

彼らはまたしても、私からかけがえのないものを奪っていった。

彼らはきっと、言うであろう――もとより友はお前のものではなく、わたしのものだった。彼を誰よりも深く、最後の最後まで片時も忘れることなく愛していたのは、このわたしだ。それはわたしであって、お前ではない――と。

ああ、そうだ、きっとさうであろう。

それこそが、真実であろう。(そうだ、さうだ、いつもいつでもいつまでも、お前は正しいのだ…! お前だけがタダシクあり、マコトであり、ゼンである…! あーめん、あーめん、はれるや、はれるや…! ああ、こう言われれば満足なのか、こう言われてさえいれば、お前ははっぴーなのか…! こんなふうに、虫けらじみた人間どもの唇をもって褒めたたえられてさえいれば……ああ、てめぇみたいなクソッタレヤロウ、もうひゃっぺんでもいちまんぺんでも、じゅーじかにかかってしんでしえばいいのだ…!)

がしかし、そんな真実が、なんであろう。

私の友はアルファからオメガまでお前のものであって、アルファからオメガまでお前は俺の友を愛していた――そんな浅薄にして一面的にして欠陥だらけの真実なんかが、いったいなんであろう…!

もしもそれの真実であるならば、お前が友の命を奪ったこともまた、真実である。

奪ったという言葉遣いが不適切ならば、殺したとか見殺しにしたとか言い直したらいいのか――? 奪った、殺した、取り去った……そんな言葉の響きの違いなど、いったいなんであるというのか。たったひとつの、もはや絶対に変わることも、取り返しのつくものでもなくなった、この厳然たる事実を前にして……

違うと言うのならば、反論してみせよ…!


ああ、

お前ののたまう「神格」とは、つくづく無智無能無恥無情にして、野卑な、愚鈍な、蒙昧な、非見識な、手前勝手な、浅薄にして狭量な、卑しくしてゲスな、くされのーみそにして虫けら同然の、、、

まるでまるで、私の友の身体を病ませた、汚らわしき「団塊の世代」が有するおぞましき性根のようではないか…!

私の言い分の、どこがオカシイ?

オカシイと言うのならば、反論してみせよ。

神は絶対に欠けることのなき愛にして、善にして、貴きにして、光にして、憐れみにして、慈しみにして、、、と並べ立てられるのならば、

これ以外にも、お前が俺に教えた、数えきれない神の名前のとおりだと、かてて加えて、俺の耳元にそっとささやいたかの神の秘密の名前のとおりだと、その絶対秘密のイエスの新しい名に誓ってのたまわれるのならば、

神の言葉というやつをもって、反論してみせよ。

「論じ合おうではないか」とは、いつもいつでも、お前からの売り言葉ではないか……


友は殺された。

我が無二の友は殺された。

善良にして心優しき、無名の青年の肉体を蝕んだのは、「戦後民主主義」という時代病だった。「団塊の世代」の虫けらどもが、てめぇらの老後の心配という「恐れ」のために、――たったそれだけの恐れをば癒す「備え」のためにこそ作り上げた「戦後レジーム」というシステムが、マトリックスが、アルゴリズムが、、そんな、タイタニックやタイタンよりもはるかにはるかに劣等な「泥船」が、、、

無辜の若き魂を、内側から冒し、蝕み、苛んだ、、、

友は多量の血を吐かされた――自ら吐き下し、自ら垂れ流した真っ黒な血へどの底で、総身あまねく血に染まり、染めぬかれて息絶えるまで、、のたうちまわった、、、


許してなるものか――

絶対に絶対に許してなるものか――

わたしの神、イエス・キリストは、憐れみと赦しの神にして、同時に、裁きと報復の神である。

種々の苦難患難を経て、強く、固く、純粋な絆に結ばれて、身も心もすべてイエス・キリストのものと「なった」、わたしのような人間に与えられた「神の力たる信仰」は、

その辺にころがっているクサレ教会なんぞが、あるいは世界的名声を博した大伝道師たちが触れ回っているような、みだらにして罪深き「バッタもの信仰」なんかとは、次元が違う。


友の心が遺した怒りも悲しみも絶望も無念も、、、

そのすべてが今日、私の心に刻まれた、私のたなごころに刻み込まれた。

彼を、たったひとりの友を、永遠の友を、私が永遠に忘れないために…

彼の叫び上げた血の咆哮を、私が鬨の声として叫び上げるために…(今こそ鬨の声を上げる時だ…!)

そのようにして、

彼の流した血の責任を負うすべての敵に私が、いや、わたしの神が、復讐するために…!


憐れみをかけることはない――

私が憐れみをかけることは、けっしてない――

神がもはや、一片の憐れみもかけないとした者どもを、私が憐れみをかけるなんてことは、けっしてない。

神の憐れみが届かなくなった者どもに、人ふぜいの憐れみが届くなんてことは、けっしてない。

「彼らは一片の憐れみを得ることもなく滅ぼし尽くされた」という言葉のとおり、

「彼ら」は一片の憐れみを得ることもなく、滅ぼし尽くされるのである。

憐れみと赦しの神が、もはや一片の憐れみもかけなくなった――

これ以上に恐ろしい出来事は、ぜったいにありはしない。いかなる神々も、憐れみの神の憐れみの無くなった世界でながらえることなど、ぜったいにぜったいに許されない。


私は、私の友の血の責任の誰にあるのか、知っている。

私に与えられた、「次元の違う信仰」によって、知っている。

私に与えられた、「信仰という神の知恵」によって、「彼ら」のいったい誰のことであるのか、この世の誰よりもはっきりと、明瞭に、明確に、知っている。

すなわち、

unsinkableだなどとうそぶいた巨船も、innovativeだなどと触れまわった潜水艇も、ものの見事に沈めてみせた、"inexcusable humanship(弁解の余地なき人間性)”こそが、

この時代のこの国に、団塊の世代だのいう下卑たシロモノを、戦後レジームだのいう下等な、劣等な、醜悪きわまりなきマトリックスをはびこらせた。

が、そんなものは、ひっきょう、「部分」にすぎない。

部分とは、手足のことであり、駒のことである。

それゆえに、かの「大淫婦バビロン」こそが、「彼ら」である。

「彼ら」にはもはや弁解の余地はなく、もはやいかなる言い逃れもできはしない。

これまでも、幾度となく、「警告」はなされて来た――今もなお、なされている。

しかし、”かたくなな人の心”は、けっしてけっしてそれを聞き入れようとはしなかったし、これからもしないだろう。

それゆえに、「彼ら」は沈んでいく。

暗く、冷たい、永遠に光の差さない深淵に、永久に沈んでいくばかりである。

――その時は、私の手には、もはやたむけるべき一輪の花もない。

「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる」という言葉の通り、

海辺の砂のような「彼ら」が沈んでいく様をば見つめながら、

残りの者の一人たる私は、その無様な様子をばはらわたも捩れるほどに嘲笑うのだ…!


私は、私に与えられた「信仰という神の知恵」によって、知っている。

「信仰という神のもっとも愚かなる知恵」は、この世を支配する者のより恃む知恵よりもはるかに賢く、その者の誇りちらかす力よりもはるかに偉大である。

たったからし種一粒ほどの信仰であっても、霊峰は揺るがされ、海は干上がり、月は落ち、陽は暗くなる。

たったからし種一粒ほどの信仰によっても、この宇宙のすべてまでいともあっけなく、沈没し、消滅せられてしまうのである。

いわんや、たかが虫けらのごとき人の手が造ったばかりのシステムだの、マトリックスだの、「タイタニック」だのにおいておや。

まったくもって、片腹痛い。

偽りのユダヤ人らがひり出し、偽預言者らのひり散らかした教会だの宗派だの教義だの神学だのいう糞土のごとく、「彼ら」の生きざま死にざまのいっさいがっさいが、ちゃんちゃらおかしい…!


「倒れた、大いなるバビロンは倒れた」という言葉の通りに、

バビロンに巣食いつづけ、バビロンそのものでもあるところの虫けらたる「彼ら」ほど、どこまでも悟らず、どこまでも傲慢にして、どこまでも蒙昧で、はてしなく腐りに腐りきった淫婦どもは、この地上には見出せない。

かつて、

「天上の悪の霊」のための、薄汚き三下にすぎなかった、この世の歴史上の偉大なる為政者どもが、

わたしの同胞たちの上に原子爆弾を投下し、数えきれない無辜の命を焼き尽くした。

そんな悪の霊のたばかりによって殺された魂たちも、わたしというたった一匹の虫けらのごとき子孫の、「憐れみの器」の中に盛られて、神の永遠の憐れみの中で生きることを得ることとなった――そのようにして、天上の悪の霊は敗北し、サタンの集いに属するばかりの者たちも、永遠に裁かれるに至った。

そうだ、

天上の悪の霊どもはことごとく、永遠に裁かれた――

バビロンは倒れた――

「裁かれた」、「倒れた」と、すでに宣言されたのだ、

ほかならぬ、完全無欠の、文句なしの、欠けるところのない「神の言葉」によって…!


それゆえに、

種々の苦難患難を経て、強く、固く、純粋な絆に結ばれて、身も心もすべてイエス・キリストのものと「なった」、わたしのような魂でなくしては、

どうして、私の友のための「憐れみの器」たる芸術を創作できようぞ。

強くあれ、雄々しくあれ。

我が霊よ、我が魂よ、ただ強く、雄々しく、前へ進め…!

鬨の声を上げよ、

勝利の歌を歌え、

喜びと賛美の歌を歌いあげよ、

イエス・キリストの名はとこしへに! 父なる神の憐れみはとこしへに!




…私は昨日、眠りながら夢を見た。

それは私の友の、「肉の親」の夢だった。

――それは殺風景な、がらんどうのような、灰色の病室だった。

いくつもの病床が、部屋の奥にむかってカジノのカードのように並んでいた。

私はふたつの小さな寝台のところまで、いささかも迷わずに歩み寄った。

そして、そこに横たわった、ふたりの男女の姿を見つめた。

それは私の友の、父母の姿であった。

「彼ら」は、まだ生きているのか、もうとっくに死んでしまったのかも判然としない様相で、

さながら死魚のような白い眼を見開いて、これまた死魚そっくりの口をぽかりと開けたまま、

左右に丁寧に並べられたがごとく、あおむけに横たわっていた。

私は言った。

まるで深淵のような闇をのぞかせる、ぽっかりと空いたふたつの口の底を見つめならが、こう言った。

「お前たちの息子は死んだ。あいつはお前たちの子孫以上に、俺自身であった。」

「これからあいつは俺の中で生きるように、お前たちはお前たち自身の深淵の中へと沈んでいく。俺がもはやふたたびこの病室を訪って、もはやふたたびお前たちに会うことのないように、お前たちももはやふたたびあいつに会うことはない。お前たちがあいつに憐れみをかけなかったように、俺がここでお前たちの白い眼と、黒い口を閉じてやることもない。俺は今はまだお前たちを知っているが、この病室から立ち去ったら、永久に忘れてしまう。しかし俺があいつを忘れることはけっしてない。人の心はまことに恐ろしい、むくつけき魔物のようだ。若く、けっして衰えをしらないその魔物によって喰い尽くされた魂の残骸は、暗く、深い海の底へ落ちていく。しかしそんな深淵もまた人の心なのだ――。深淵を行き巡り、見極めることはいかなる者にも許されていない――それゆえに、お前たちはただ永遠に沈むばかりだ、二度と浮かびあがって来ること能わない。しかし、あいつは大丈夫だ。あいつは俺の心とともにいる。俺たちは深淵を行き巡り、ふたたび浮かびあがることのできるたったひとつの「器」の中にいるのだから。だからあいつは大丈夫だ。あいつも俺も、いつもいつでもいつまでも。」

「これでお別れだ。俺はお前たちの白い目を閉ざすことも、黒い口を覆ってやることもない。それがお前たちの受ける分なのだ。――永遠にさようなら…永遠に……!」

言い終えた私は、部屋を去った。

そうして、「彼ら」のことはすっかり忘れ去り、もはやふたたび思い起こすことはなかった。……


それゆえに、

わたしは歌った、歌いあげた。

わたしたちは、立った、

立ち上がり、光を放った。

わたしたちは、強く雄々しく、歌いあげた。

わたしたちは、強く、雄々しく、前へ進んだ。

わたしたちは、なお歌った。

力の限り、喜びと賛美の歌を、歌いつづけた。

イエス・キリストの名はとこしへに…! 

父なる神の栄光はとこしへに…!

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