会いたいだけ
文章を書く理由なんか、ひとつしかない。
今よりも上手くなりたい、――それだけである。
さりながら、
自分の書いたものが、誰にも読まれなくてもいい、
自分の書いたものの読者が、自分だけでもいい、
――そう言い切ってしまったら、ウソになるかもしれない。
たった一人でも、自分以外の誰かに読んでもらえたなら、ただそれだけで、まことにまことに、ありがたいことである。
しかしながら、いつもわたしが批判的にあげつらっている作家のひとりに、世界でもっとも権威あるとされている賞を受賞しながら、その直後の講演の中で、「これで僕は、本を読んで暮らせる。もう小説なんか書きゃしないですよ」と言って、実際に断筆宣言までした人がいる。(その後、同宣言を撤回しているが…。)
そんな小説家は、文章家として、まことにまことに、不幸な存在である。
世界でもっとも栄誉ある賞とされている賞を授けられながら、「もう小説は書かない」、とか、「自分は自分の小説に満足できない小説家の道をたどった」とまで、公言しなければならなかったのだから。
イチロー選手も、言っている。
「秤は、あくまで、自分の中にある」と。
それゆえに、
極論にはなるが、
ノーベル賞を受賞しても、自分自身が満足できない作品を書いた、という人生と、
世界でたった一人の読者が作者自身であるような作品でも、「昨日の自分よりも、ほんの少しでも上手に書けた」という確かな実感を手にし得た小説をものした、という人生と、
後者の方が、
疑いも、間違いも、議論の余地もなく、クリエーターにとっては、幸せなのである。
なぜとならば、「秤は、あくまで、自分の中にある」から。
で、これは「神」についても、まったく同じことが言える。
というよりも、こっちこそ、わたしの書く、本当の理由である。
「神」が、自分に、幸福を与えるから、出会いたいのではない。
「神」が、自分に、不幸を与えるから、出会いたくないのでもない。
「今よりも、ほんの少しでもいいから文章が上手くなりたい」ように、
「今よりも、ほんの少しでもいいから、神を知りたい」がために、
「神」と出会いたいのである。
「神」と会いたいから、会う。
ただ神に「会いたい」。
会いたい、
会いたい、
会いたい、
「会いたいだけ」なのである。
そんなふうにして、
「神」と出会った結果、不幸になっても、幸福になっても、それは副産物。
不幸になれば神は呪わしいし、幸福になれば神は素晴らしい…そういう単純で正直な感情も、添え物にすぎない。
いずれの副産物であっても(もちろん後者の方が望ましい)、
「神」を、以前よりも、ほんのわずかでも「知った」のであれば、
それこそが、
疑いも、間違いも、議論の余地もなく、
人間にとっての、
本当の「生きがい」なのである。
なぜか。
それは、「いま生きている、わたしの神(イエス)」を、「自分の身(人生)をもって」、「仰ぎ見た(知った)」人ならば、分かります。
そんな生きがいこそが、「永遠の命」であるということを。
それゆえに、
誰からも認めてもらえないような人生でも、生き続ける理由は、
誰にも読んでもらえないような文章でも、書きつづける理由は、
そうすることで、「いま生きている、わたしの神、イエス・キリストと出会う」ためなのである。