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アブラハムが生まれる前から、わたしはある ②

それでは、

―― アブラハムの生まれる前から、わたしはある ――

とは、いったいどういう意味なのだろうか?


先述のマトハズレの回転木馬にゆられながら、欣然としている人々をして語らせると、たいてい以下のようになる。

「わたしはある」とは、原語のギリシャ語では「エゴ―エイミ」という言葉であり(英語では I am that I amであり)、この言葉がはじめて聖書の中に登場したのは、出エジプト記の中の「燃える柴」の場面であり、よって、ヘブライ語においては・・・

といった、まあ、いつものお決まりの原語解説をかわきりに、聖書の他の文脈ではどうしたの、用いられている動詞と形容詞がどうしたの、近年の研究における翻訳としてはどうしたの、歴史的背景の考察においてはどうしたのと、そんな類のリロセーゼンとした研究論文をば、得得として並べ立てていく。

『ふたりぼっちの世界』という文章の中でも書いたことを、ここでもう一度はっきりと書いておくが、そういう「お勉強」のいっさいが、「やりたきゃどうぞ」というレベルの話にすぎずして、「やったから真理に到達できる」というものでもなく、「やらなければ奥義にたどりつけない」というものでもけっしてない。

もしも、私のこの主張に反論があるというならば、それではそんなにも「大好きな聖書」の中の最重要人物たるイエスが、「神の国」について語った時、いかな無知無学な人間にでも理解できる「たとえ話」を多用して話したのはなぜだったのか――その時のイエスの「心情」をこそ、いまいちど、その非常に賢明なる脳みそをもって想像してみたらいかがだろうか――?

私は、こんなふうなことを「わたしの神」によって書かされることが、めんどくさくてならない。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか?」と言ってニコデモをたしなめたイエスにあやかるわけでもないが、「神を信じる」ことが「聖書研究」のことではないことくらい、この時代のニコデモたちはマジで分かんねぇんだろうか…! 

「聖書はわたしについて証している」とイエス自身が言っているのだから、しょせん本にすぎない聖書を――その中に並べ立てられた言葉の群れを――きちんと理解したいと願うのならば、イエスという登場人物の「心情をこそ想像する」ことである。

たった一日の心情の想像が、一万年に及ぶ研究や考察や分析やをはるかに凌駕することを、イエス・キリストの名によって断言したっていい。

そんな子供でもできる「想像」をしないからこそ、「アブラハムの生まれる前から、わたしはある」という言葉にまみえた時、そのように言ったイエスの「心情」よりも、「これはエゴ―・エイミというギリシャ語であり、やれ近年の研究では、歴史的背景の考察では…」というご解説に熱を上げてしまうのである。これぞ「マトハズレ」と言わずして、なんというのだろうか…!

もしもこれについても反論があるのならば、では、聖書にいかなる先入観も予備知識も持たない子どもたちをつかまえて、「アブラハムの生まれる前から、わたしはある」という言葉が出てくる箇所を、読ませてみればいいのだ。ヨハネ福音書8章の該当箇所において、イエスが何を言わんとしていたかくらい、中学生の読解力をもってしても分かる話だから。

高校受験なんかの練習問題にして、出題してみればいい――ヨハネ福音書8章の該当箇所で、イエスとユダヤ人たちが対立したポイントは何であったのか、と。

そんな読解力を試す問題として問うてみた時でも、もっとも的を得た回答とは、「アブラハムについての議論」である。それが対立のきっかけであり、終始の焦点であり、けっしてけっして「わたしはある」というひと言なんかではない。それゆえに、対立が頂点にまで達したのは、「アブラハムの生まれる前から」という言葉の方が原因であり、「わたしはある」の方ではないのである。――こんなことは、文脈をきちんと把握するという、国語力の話である。

このような子どもレベルの大前提をさえものの見事に踏み外したうえで、「わたしはある」に焦点を当て、「エゴ―・エイミ」をやり出してしまうから、もっとも肝要なイエスの「心情」にまでたどり着けないのである。

はっきり言っておきますが、イエスの「心情」――すなわち、「神の心」がわかんないまま組み立てられた議論なんか、すべてなべておしなべて、「バベルの塔」ですからね…!

だから、ここであえて、この文章の目的を述べてしまうならば、そんなイエスの心情を汲んでいない「バベルの塔」に、「キリストの再臨」が起こると思いますか――? 「からし種ひと粒ほどの信仰」をもって、よくよく自問自答してみろや…!


それゆえに、

「アブラハムの生まれる前から、わたしはある」と言った時のイエスの心情を想像するとしたら、おおよそ以下のようである。

時のユダヤ人たちは、「私たちはアブラハムの子孫である」と主張しながらも、「わたしたちにはただひとりの父がいる。それは神だ」と言っている。「ならばなぜ、その父なる神から遣わされたイエスを信じないのか」と問えば、「お前は、私たちの父アブラハムよりも偉大だというのか。お前は何者なんだ」と反駁する。――こんな、まったく噛み合わないやり取りを続けたあげくのはてに、ついにイエスははっきり言ったのである。「アブラハムの生まれる前から、わたしはある」と。

要するに、

アブラハムなんかの生まれる前から、神は神である――

血肉の、骨肉の、系図的なアブラハムの子孫であることなどに、どうして固執するのか。わたし(イエス)もまた血肉の、骨肉の、系図的なアブラハムの子孫であればこそ、アブラハム以前からの、天地の創造主である神を「父」としているのではないか。しょせんだたの人間にすぎないアブラハムと、天の父なる神と、いったいどちらがあなたたちの「父」なのか――

という問いかけを、イエスはしたのである。

もっとひらたく言ってしまえば、

イエスは時のユダヤ人たちにむかって、こう言ったのである。

「僕のパパは「神」だから、君たちのパパ「アブラハム」よりもずっと強いんだからね!」――と。

「アブラハムが生まれる前から、わたしはある」という言葉の裏にあるイエスの心情を、くだけにくだけた言葉をもって翻訳してしまえば、このような実にツマラナイ、子供の喧嘩並みの感情にすぎないのである。

余談だが、イエスという「人間」は、私の見る限りでも、かなり「ガキっぽい」ところがある。

ことに「わたしの父」を語る時に、「僕のパパ」的傾向が強くなる。

――こういう私の話をすべてバカラシイと鼻で笑ってもらっても、もちろん結構である。私もまた、たとえば「エゴー・エイミ」的な研究論文の類のいっさいなど、かの日にあって、すべてなべておしなべて、藁のように焼き尽くされてしまうことくらいよくよく知っていますので。

しかし、これだけは言っておくが、イエスが「ガキっぽい」などとはっきり言い得た人間は、この広い世界と、長い歴史において、私以外にせいぜい数える程度しか存在しないのではなかろうか。

「イエスなんかガキっぽい人間だった」と、私がはっきり公言できるのは、わたしがいつもいつも復活したイエスと顔と顔を合わせてあいまみえ、「とてもとても仲が良い」からこそできることであって、それゆえに、これはたんなる「想像」以上の、「信仰」の話なのである。

こう言っても「信仰」のなんたるかが分からない人のために付け加えておくと、それは、神と人間との間の「絆」のことである。


それゆえに、

「信仰」というイエスとの絆があればこそ、イエスの心情も想像できるのである

人間同士の関係においてだって、相手の性格や人となりをよく知っていればこそ、その人間の言葉の裏にある心情が想像できるというものではないか。

だから、私の言わんとしている「信仰」なんて、コムズカシイ研究分析の類のことではなく、ごくごく日常レベルの話にすぎないのである。

であるからして、たとえばヨハネ福音書8章なんかに描かれているイエスとユダヤ人たちの「子供の喧嘩」の場面にふれて、「エゴ―・エイミ的研究論文」を書き出してしまう人は、「信仰」のない人間か、「想像力」もない人間か、自滅の回転木馬から降りられなくなってしまった人間か、あるいは「アブラハムの生まれる前から、わたしはある」と言われたがために、イエスにむかって石を投げつけようとしたかつてのユダヤ人たちか、――ひっきょうそんな程度の存在にすぎない。

それゆえに、そんな程度の存在なんかに、私としてもかそけき興味も抱かないのである。

かそけき興味もない事柄についても、このようにして書けと強制されることが、どれだけめんどくさくて、バカバカしくて、時間のムダで、精神衛生上も百害あって一利無しの仕事であるか――会社勤めをしたことのある人だったら、容易に想像できることでしょう。

それでも――

それでも、神という存在は、たとえば「わたしは主である」なんていうひと言で、四十年もの長日月に及ぶ荒野の旅を人間に強制できるお方ですので、どこぞのブラック企業の社長レベルの話ではない、マジで人を人とも思わない、自分勝手で、自分の都合しか考えず、とことん自分本位で、自分の目的のためならどこまでも冷酷で冷血で、鬼か悪魔の親玉みたいなヤツなんですよ――!

とまあ、そんな「父なる神へのグチ」はいったん置いておくとして、

それでは、

「僕のパパは神だから、君たちのパパ(アブラハム)よりもずっと強いんだからね」

というような、まったくもって「ガキっぽい心情」をもって、いったいイエスは何を言いたかったのだろうか。

もとい、そんな「ガキっぽい心情」をば想像させることによって、イエスはいったい、この時代の私に向かって何を言いたいというのだろうか――?




つづく・・・


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