市民と人間 2
那須正幹氏を悼んで
サララリーマン時代に一度だけ、広島市に転勤した事がある。
正直なところ、結局最後まで好きになれなかった街であったが、市の中心部にあった原爆ドームと、そこから少し離れた郊外の、ある児童文学の舞台となった小さな町とへは、しばしば自転車を漕いで足を運んだ。
小さな町には、一の神社があった。
それはまた大層小さな川に沿った、小さな山の中に造られた社であったが、参拝に赴くには、それなりに急な石段をてっぺんまで登り切らなければならなかった。登り切ると、想像していたよりも大きな社が現れるのだった。
およそ一年間の滞在を通して、私は三たび、宮島の厳島神社を訪って、一度も賽銭を奉納した事はなかったけれども、その大きな社へは、毎回のように、5円、10円と放る習慣になっていた。
何度目かに、参拝を思い立った時のことだった。ふと、急な石段の途中で山道が二つに分かれて、一方が裏山の奥へと続く、薄暗い小道になっている事に気がついた。
薄暗い小道は、参拝者が階段を登るために造られた、今ではもうすっかり錆びついた手摺の向こう側に伸びていた。きっと、それまでも何度も目にしていながら、ちゃんと観察したことはなかったのだろう。
それは、小雨が降ったり止んだりしていた日の、午後のことだった。私は錆びた手摺をひょいと飛び越えて、裏山の方へ登ってみようという気持ちを起こした。
見れば、小道は石段に劣らずの急な坂道になっていて、雨のため地面いっぱいに落ち重なった笹の葉が、苔や泥と一緒にたっぷり水気を含みながら、ぬかるんでいた。『やめとき。危ないよ。』――と、誰かが背中でささやいた気がした。
案の定、少し登ると、虚空を踏んだように足が踊った。一刹那、ふわりと宙に浮いた、贅肉のたっぷり付いた大きな身体は、次の瞬間、勢い良く地面に叩きつけられた。全身を貫いた激しい痛みに、私は年甲斐もなく悲鳴を上げた。すると、その大声に驚いた民家の犬が、山中で笑ったように、警戒したように鳴き出した。肩にあった折り鞄や、杖代わりにしていたビニル傘は、ばらばらにされた胴体のごとく、散らばった。
私は、転んだ痛みを痩せ我慢しながら、何事も無かったかのように立ち上がると、手や肘に着いた泥を払おうとした。が、払おうとすればするほどに、あちこち泥にまみれていった。新調してまだ間もなかった革靴に、昨日買ったばかりの衣服まで、不潔な泥や落ち葉のために汚れてしまったことが、いたく悔やまれた。そこへ、何か大きな羽虫がぶーんという音と共に耳元を急襲したので、良い年をした大人は叫喚して、はなはだしく両手を振り回した。
やがて視界も開けた、小さな町が遠くまで見渡せる、うてなまでたどり着いた。緩やかな向こうの山肌には、無数の民家が侵食を重ねてい、それらは紛れもない人間の住処には違いないのだが、まるで鳥の巣のような、どうにも気味悪い風景を広げていた。
麓の学校で、終業のベルが鳴った。その懐かしく、一種の気だるさをいざなう音響が、山々の狭間と、私の鼓膜のひだとにこだました時、私はふと、ある言葉を思い出した。
『市民と人間はあいまみえず』
たしかなる幻滅と偽らざる失望による苦味とを、胸の内に反芻しながら、顔をもたげた私は、ふたたび蜂に刺されはしまいか、蚊にさされはしまいかと恐れながら、さらに上へと登っていこうとした。
が、しかし、そこにはもう、道はなかった。
いや、本当はあったのだ。本当はまだ、いずこへと続く道が、あったのだ。
けれども、それは大人の私の身体が分け入るべく、余りに狭く、細く、そして薄暗くなっていた。私は観念した。もうこれ以上、こんな格好では登って行けまいと考えたからである。私はもと来た道を、やむなく引き返していった。
さっきまで恐ろしいと思いながら登った道を、今度はどうにももの悲しい気持ちで、私は降りていった。
人は時々、大人になってから世界が広がったというような事を言うけれど、はたして、本当にそうであろうか?
子供の頃は、何をも恐れることなく、一足ごとに胸を弾ませながら、それこそ羽を生やしたような五体をもって駆け上がった山の小道だったのに、今の私には、到底そんな真似は出来なくなっていた。あの薄暗い、奥の細道の先にあるべき世界は、私に対して、もうとっくに、氷でできた心のように閉ざされていた。
大人になるとは、こういう事ではなかろうか?
人は時々、大人になる事を、自分だけの世界で生きるよりも、もっと広い世界を知覚する事だと、そう言う事があるけれど、はたしてそんな世界とは、いったい何であろうか?
毎日毎日、ひたすら会社と自宅をつなぐ道を来住するばかりの生活は、かつて子供であった私の、どのような世界を広げたというのだろうか? 出世の好機に恵まれたり、より高待遇の組織へ誘われる達成は――? たまの休みにちょっと温泉街を訪れたり、観光に興じたりするレジャーは――? パソコンや携帯電話の通信によって、世界中の人間たちと、無為な情報交換に明け暮れるグローバリゼーションは――?
もし、明日にまた、今度は長袖長ズボンを登山靴の中にたくしこんで、あの奥の細道を進んで行ったとしても、今の私には、今の私に感動を与え得る何物をも、見出せはしないだろう。
どうせ、そんな大したものなんかあるわけがない――そんな貧しい想像力しか、もはや心の内にないのだから。ふたたび滑って転んで、それこそ今度は怪我でもしたりしてはいけない――あるいは何か危険な虫や生物に鉢合わせた日には――そんな慎重で、現実的で、臆病な予測しか、今の私にはできないのだから。
『やめとき。危ないよ。』…
大人になるとは、こういう事ではなかろうか?
裏山へ続く奥の細道を分け入るだけで、胸をドキドキさせた少年は、もう、私の中にいないのである。
大人とは、何者なのであろうか?
人は大人になる事で、実はより狭い世界を生きているのではなかろうか?
色彩豊かな、無限の想像力に導かれ、思う存分手足を伸ばして躍動する代わりに、あらゆる国のあらゆる街を気随気ままに闊歩する代わりに、「生活」という軛の下に虐げられ、「現実」という虚無の中を、這いずり回るのではないだろうか?
それでも良い、それが人生だものという「大人たち」とは、私はサラリーマンをやっていた頃から、到底口をきく気にさえなれないのである。