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アカンに割礼はあったか ②


――
あなたを破壊した者は速やかに来たが
あなたを建てる者は更に速やかに来る
――


私はこれまでも自分の文章をもって書いて来た――「わたしは主である」という神から、書けと言われたがために書いて来た。

たとえば、『人はパンのみにて生くるにあらず』という文章において、神を信ずることとは、この世でもっとも難しい行為であると書いて来た。――もしもこの世の偽預言者たちの甘言のように、それが「フリーギフト」を受け取るばかりの話にすぎぬのならば、荒野において死ぬ人間など一人としていなかったはずである。

『アダムとイエス』という文章においては、アブラハム以前に存在したアダムやアベルやエノクやノアやといった人物たちは皆、「信仰」によって神を知り、神から知られて生きていたことを綴った。――彼らの身体にはいずれも割礼の跡などなく、いわんや教会のバプテスマなど受けたこともなかった。さらには、トーラー(聖書)さえ側にあったとは思われない――けれども、彼らの中には常に信仰という生きた神の言葉が息づいていた。それゆえに、私は同じ生きた信仰によって、かの日には彼ら一人ひとりとも会うことができると確信している。

『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ』という文章において、また『父よ、我が霊を御手にゆだねます』という文章においては、人の子イエスがこの地上において発した言葉の中で、なにがもっとも重要なひと言であったかを聖霊に満たされて書き綴った。――私が私の人生において叫び上げた「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」、それがイエスと共に上げられたキリストの十字架上での出来事だった。キリストの十字架の上でつぶやいた「父よ、我が霊を御手にゆだねます」、それがイエスと共に味わった、キリストの十字架の死だった。それゆえに、「バプテスマ」というならば、このような実体験が私のバプテスマであり、私の言う「真のバプテスマ」とは、このような人生経験のことを示唆しているのである。


それゆえに、

パウロの「切り傷にすぎない…」も、モーセやエレミヤの「心の包皮を…」も、私にはその言葉の真意が、はっきりとくっきりとしっかりと理解できるのである。

またそれがゆえに、なんぴとたりとも揺るがし得ない「確信」の岩の上に立って、こうも言うのである。

「水に沈めただけの教会のバプテスマ」なんぞ糞土のごとき駄物にして、それ以上に悪性かつ毒性の大嘘であり、そして預言の言葉になぞらえるならば「身を覆うことのできない、くもの糸の着物、災いの織物」に間違いない、と。

なぜとならば、

肉の割礼が「キリストにおいて有利ではなく、むしろ損失でしかない」とその身をもって知ったキリストの使徒のように、

この私もまた、「教会のバプテスマ」なんぞが何のしるしにもならず、救いにもならず、キリストにおいていささかも有利に働くものでもなく、むしろイエス・キリストを知る上では、まったく有害にして有毒であるばかりだと、我が身をもって体験し、我が人生において経験したからである。


がしかし、

モーセやパウロやこの私やと同じ「生きた信仰」をば、からし種ひと粒ほども与えられていない者どもは言うであろう。

それはしょせん、お前というちっぽけな、あまりにちっぽけな井の中の人生経験にすぎずして、いかなる汎用性を保証するものたりえない、と。

その通りである。

さりながら、

それならば、はっきりとはっきりと言っておくが、

神と出会うこととは、わたしの神とあいまみえることとは、イエス・キリストを知ることとは、キリスト・イエスを通して父なる神から知られるということとは、

「わたし」というちっぽけな、あまりにちっぽけな人生の中でのみ起こり得る実際の出来事である。

それ以外のいかなる「井の中」も、この地上にありはしない。(「噂に聞いていた神ではなく、今わたしの目で仰ぎ見ました」とはそういう意味であり、それ以外の意味があるというならば、お前の文章をもって示してみせよ。)

モーセにせよパウロにせよ、ほかの誰のものでもない自分の人生という「井の中」をもってイエス・キリストと出会ったからこそ、「切り傷にすぎない割礼」だの、「心の包皮を切り捨てよ」だのと確言したのであり、

まったく同じ理由から、この私も、「ガキの水遊びにも見劣る教会のバプテスマ」だの、「そんな下等なる嘘っぱちをもって宗教ビジネスを営んでいる輩は歴然たる偽預言者」だのと言い切っているまでである。

それのどこがオカシイのか?

すこしも、いささかも、蜂の頭ほどもオカシイ点などありはしない。

それゆえに、

もしもお前がお前の「井の中」にあって、私の言う「水に沈めただけの教会のバプテスマ」によってイエス・キリストと出会い、キリスト・イエスを通して父なる神からも知られたと豪語するのならば、大変に結構なことである。どうぞ、それを一生懸命に宣べ伝えたらよろしい。教会のバプテスマにはただ水に沈めればいいという、さながら性器の一部を切り取ればいいという肉の割礼ばりの「汎用性」があるのだから、やりたければ思う存分にやったらよろしい――どうぞどうぞご勝手に…!


このように、

この世のユダヤ教だのキリスト教だの教会だの宗派だの教義だの神学だのいう世界に蠅のごとくたかっている「アカンども」と、

万軍の主たるイエス・キリストの最愛の伴侶たるこの私とは、永遠に相容れない間柄にあるのである。

だから、肉の割礼なんぞを誇っていた単なる系図的ユダヤ人たちのごとく、「教会のバプテスマ」なんぞを誇っている愚盲なる偽預言者どもとは、これからも心の包皮を切り捨てることはけっしてなく、

この世でもっともフザケタ悪弊を己の脳みそ使って疑うことも、アホの極みたる決まり事を己の心の中で問い質すことも、暴力団のシノギのように堕した儀式を聖なるものがごとくに信じ込んでいる今の行いを悔い改めることもなく、「かたくなにして、物分かりの悪い心」そのまま、死ぬまでふるまい続けるであろうことぐらい、よくよく分かっている。

ならば、なぜ、

私はこんな文章を書いているというのか。

なにゆえに、彼らから「離れ去れ」だの、彼らではなく「わたしこそ…」だなどと、言わなければならないのか……

こんなことを言う私とてまた、この世の教会のように定期的に献金を恵んでくれる信者の皆さまが欲しいのだろうか―――――バカバカしい…!

私はすでに、そんな「なにゆえ」など、冒頭において述べているではないか。

すなわち、私は「わたしは主である」という神の言葉のとおりに動き、働き、生きているばかりである。

その他に、いかなる理由もありはしない――『わたしは主である』という文章にしても、『ソドムとゴモラ』にしても、『憐れみの器』にしても、『余命という終幕』にしても、書けと言われたから書き、言えと言われたがために言って来たまでである。

だから私は、私がかつて荒野の只中で「霊のバプテスマ」を受けたのは、このように、わたしの神イエス・キリストの言葉を聞き分けて、聞き従うようになるためであったことを知っている。

私が私の人生という井の中で、「心の割礼」を施されるのは、いつもいつでもいつまでも、イエス・キリストを通して知られている父なる神の言葉のとおりに動き、働き、生きることができるようになるためであることを知っている。

なぜとならば、

父なる神の御心を行うこと――これ以外に、「ことごとく滅ぼしつくされる」運命からまぬがれて、かつ「永遠の命」を生きる道など、ただのひとつも他にないからである。


それゆえに、

わたしの神イエス・キリストに言えと言われるがまま、もう一度、はっきりとはっきりと言っておく、

自分の肉体に割礼を施されたからといって、いかなる人も、主なる神の声に聞き従えるようになったわけでは、けっしてない――

同様に、水に沈められただけの教会のバプテスマを授かったからといって、いかなる人も、父なる神の御心を行うようになれるわけでも、けっしてない――

イエス・キリストの声に聞き従って、父なる神の御心を行うことができなければ、肉の割礼の有無を問わず、教会のバプテスマの受洗の有無を問わず、すべての人間は「ことごとく滅ぼしつくされる」しか終点はないのである、と。



父よ、

ああ、わたしの父よ、

なんてバカバカしい……!

もう、あまりにもバカバカしすぎて、とてもとてもとても、これ以上やっていられない……!



父よ、

あなたは、わたしの荒野の旅を終えるために、『わたしは主である』を書かせた。

わたしの荒野の旅の目的を悟らせるために、『憐れみの器』を書かせた。

わたしの荒野の旅が終わったために、『余命という終幕』を、『不思議という旅路』を書かせた。

――父よ、私は間違っていますか?


それなのに、

「戦いを戦いぬき、行程を走り抜いた」という確信を与えておきながら、なにゆえに、なおもって私を新たな戦いに引きずり込もうとするがごとく、こんな文章をば書かせているのか。

まるでまるで「戦いぬき、走り抜いた」というあの時の確信が、おしなべて私の浅はかな思い込みにして、とちくるった譫妄であったとでも言うかのように。

もしももしも、

すべては私の盲信であり、蒙昧であり、発狂の報酬であったとというならば、荒野の真ん中で、さっさと殺してくれたら良かったのに。

目障りならば、耳障りならば、気障りならば、今からでもけっして遅くない、私のような虫けら一匹、さっさと始末してしまったらいいではないか――私が死んでほんとうに困る人間など、私以外にこの地上に一人としていないのだから。

――父よ、私は間違っていますか?


「教会のバプテスマ」なぞ、肉の割礼以下の茶番にすぎずして、ただひたすらに愚劣で、蒙昧で、マトハズレで、悪質で、毒性で、悪徳で、野卑で、不品行で――それゆえに、このように貴重な時間を割いてまでしてあげつらってやるわずかな価値もないではないか。

すでに裁かれている者は、すでに裁かれている――しかし彼らはそれに気づくこともなければ、裁かれているがそれゆえに行いを悔い改めることもない。

私はこれからも、そのような「サタンの集いに属する者たち」によって死に追いやられた我が友、我が先祖、我が同胞たちのためにも、「いっぺんの憐れみもない復讐」をわたしの神に祈り求めるだけである――

そして、父よ、あなたはそのような私の祈りに、すでに答えてくれたではないか。

「倒れた、バビロンは倒れた」――このひと言によって、「復讐してください」という私の祈りに対して、はっきりとくっきりとしっかりと、答ってくれたではないか。

――父よ、私は間違っていますか?


私には、完成させなければならない芸術がある。

「教会のバプテスマ」のような、はてしなく下卑たテーマを扱ったものよりもはるかに高度な、高等な、高尚な文章を書かなければならない使命がある――その使命遂行のために必要な名前を、確信を、才能を、技術を、内なる熱量を与えたのは、父よ、あなたではなかったか…!

私が見つめた雨上がりの中天の、あの虹のかがやきは、須臾ではない、かのとこしへの虹をうつした幻影であった。

それはまた、荒野の旅を終えて登った「神の憐れみの山の頂」で、そっと耳打ちされた、わたしだけに知らされたイエス・キリストの新しい名前のようだった。

その気持ちを忘れないためにも、私にはどうしても書き下ろさなければならない物語があるのだ。

――父よ、私は間違っていますか?


しかし、それを完成させたからといっていったい何であろう。

私はモーセでもなければ、パウロでもない――モーセだろうがパウロだろうが、彼らは私とまったく同じ人であって、特別に優れた者だとも思わない。

「特別に優れている」のは、いつもいつでもいつまでも、イエス・キリストただひとりではないか。

そして、モーセやパウロがキリストでなかったように、この私もキリストであるはずがない。

――父よ、私は間違っていますか?


私はこんなところでいったい何をしているのだ。

アカンは割礼を施された後に、主なる神に背いて、ことごとく滅ぼしつくされた――

こんな当たり前のことを当たり前に書いたから、それがなんだというのか。

肉の割礼が真の割礼でなかったように、教会のバプテスマも真のバプテスマではけっしてない――

こんなことを「書け」と言われたまま書いたから、それがどうしたというのだ。

書けば返してくれるのか。

私が失ったものをば、あなたは、この手に返してくれるのか。

『ソドムとゴモラ』を書いたように、『友よ、我が霊とともに』を書いたように、私が失った愛する人も、無二の友も、そして、私の右の手も、、、父よ、あなたは返してくれるというのか。

もとより彼らは私のものではなく、神のものだった、この私もまた神のものである、、、わたしはイエス・キリストのものであり、イエス・キリストは父なる神のものなのだ――

それでも、

それでもそれゆえに、、、それゆえに、、、あなたは返してくれるのか。

いっさいは神のもの、それがゆえにこそ、、、あなたはわたしに返してくれるのか、、、もう一度、与えてくれるのか、、、なぜとならば、わたしはあなたのものなのだから、、、!


父よ、私はこんなところでなにをしているのか。

「教会のバプテスマ」のようなこの世でもっとも恥ずべき商売にして、もっとも堕落したテーマを扱った文章を書くことが、どうしてあなたの御心を行うことだというのか。

こんなところでこんなバカバカしいことをやり続けて、いったいなんになるというのか。

イエス・キリストの声に聞き従って、父なる神の御心を行うことでしか、永遠に生きる道はありはしない――悖れば、ただことごとく滅ぼしつくされるばかりである。

だから、私は書いたではないか。書けと言われたままに、言えと言われたままに、これまでも従い、動き、働き、生きて来たではないか。

それでももう、もう「教会のバプテスマ」のような最下等なテーマを扱うのはウンザリだ、ゲンナリだ、ヘキエキだ、ヘドが出る、吐き気がする、ヘドがヘドがヘドが出る……!

ああ、こんなふうにあなたに向かって書いたからと言って、どうしてあなたの名前のためになるというのか………


父よ、あなたはわたしに言ったではないか。

あなたを破壊するものは速やかに来たが、
あなたを建てるものはさらに速やかに来る
、と。

私は、あなたの、神の言葉の実現を待っている――一日千秋の思いで胸も焼かれ、はらわたは焦がされている。

神の言葉の実現――それこそ、イエス・キリストとの邂逅なのだから…!

――父よ、私は間違っていますか?

もしも間違っているのならば、どうか「速やかに」、この命など取り去ってもらって一向に構わない。

私は命をかけて祈ることになんの戸惑いも、恐れもない。

この身をもってイエス・キリストに出会う、出会い続ける――ただそれだけのためにこそ、これまでも命をかけて祈って(書いて)来たのだから……!


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