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ソドムとゴモラ ⑥



――
たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。
――


それでは、どういう結論になるのか?

私は神の尊重した自由意志において、アブラハムを同じ人として尊敬しないと、神に向かって訴える。

私は神に与えられた信仰によって、「弟子は師にまさるものではない」という言葉のとおりに、アブラハムのような浅薄で軽薄でどこまでもツマラナイ小者なんかにはけっしてなりたくないと、神に向かって訴える。

神に憐れみをかけられながらも、その憐れみをムダにして、後世に争いの火種を残しただけのロトのような罪深き余生なんか、ぜったいにゴメンだと訴える。

それゆえに、

私は今日も滅ぼされた私の故郷「ソドムとゴモラ」の地にひとり帰り、瓦礫を掘り返す――私が「わたし」であり続けるために。

私は神から与えられた「自由意志」と「信仰」によって、人が神を憎むことを神が許していることを知る。

ソドムであれゴモラであれ、南ユダであれ北イスラエルであれ――ヒロシマであれナガサキであれ――自分の故郷を破壊された者が、故郷を破壊した者を憎むことは許されている。

がしかし、

私が憎むのは、あくまでも神であり、神ただひとりである。

神を憎むあまりに、神に従う者たちまで憎むことを決めたのが、すなわち悪魔とかサタンとか呼ばれるタワケモノである。

私は神を憎んでも、神に従う者を憎んではいない――もしも憎んでいるとするならば、私はほかの誰よりも強く、激しく、飽くことなく、私自身を憎んでいるはずである。しかし私はけっして、私自身を憎んでなどいない。

私は神を憎んでも、神に従う私自身のことは憎まない――それが悪魔と私の違いである。

同様に、

神を愛しているようなふりをしながら、神に従っているように見せかけている自分たちに従おうとしないこの世のあらゆる人間を憎んでいるのが偽預言者であり、偽りのユダヤ人たちである――それゆえに、彼らは「サタンの集いに属する者たち」と言われているのである。

私は違う。

私は母の胎内にいた頃から、そんな蛇や蝮の子たちとは決定的に違っていた。


――それでは、どういう結論になるのか?

私は我が芸術をもって、神に向かって私の「わたしらしい心情」を訴えようと思い立った。

そして、そんな芸術の完成を犠牲にしてでも、この文章をもって「アブラハムの神とは、ほんとうにイエス・キリストだったのか」という問いかけを試みた。

これをもっと端的に要約するならば、

「イエス・キリストは本当にわたしの神であるのか?」

という、私の子供の頃からの問いかけをくり返しているにすぎないのである。


――それでは、どういう結論になるのか?

堂々めぐりをくり返しながらも、私は明確な意図を持ってこの文章を書いて来た。

それを「ひとつの糸」のようにたぐりながら、非常に苦しみつつ書き進めて来た。

その「ひとつの糸」こそが、イエス・キリストは本当にわたしの神であるのかという問いかけなのである。



それゆえに、

アブラハムの神とは、ほんとうにイエス・キリストだったのか?

ソドムとゴモラの町とともに、ささやかな人生まで破壊したのも、キリスト・イエスだったのか?

アブラハムがイサクを捧げたという、その程度の信仰を与え、その程度の行いを喜んだのも、イエス・キリストだったのか?

そんなちっぽけな信仰と行いが、ソドムとゴモラのように故郷を滅ぼされ、取るに足らない生活を破壊された「わたし」にとって、なんであろうか?

そんなどうでもいいようなエピソードをことさらに褒めたたえるような教義が、宗派が、民族が、共同体が――そんなソドムとゴモラの瓦礫にすら見劣るようなすべてが、いったいなんであろうか?

ソドムを滅ぼしたのがイエス・キリストであれば、まるでゴモラのように南ユダを滅ぼしたのもキリスト・イエスなのだろうか?

そうであれば、南ユダの生き残りであったエレミヤが『哀歌』を詠ったように、この時代の私が私の故郷にあった「ささやかな人生」に向かって、同じ哀歌を詠むような小説(フィクション)を書いたとしたら、それは罪だろうか?

たかが無名の小説家の手によるフィクションの中で、アブラハムやロトといった愚物どもの薄情っぷりや不信仰っぷりをあげつらったとして、それが罪だろうか?

罪だというのならば、死に至る罪だろうか? 死に至らない罪だろうか?

アブラハムの子孫はキリストのことである――という「罪」なる主張と、

アブラハムの子孫はユダヤ民族である――という「罪」なる主張と、

はたしてどちらが「死に至る罪」だろうか?


もしもアブラハムの神がイエス・キリストであったとして、それがなんだろうか?

ソドムとゴモラの地に生まれ、そこに育まれた私にとって、そんな真実がなんだろうか?

滅びの子として生まれ、滅びの運命の下に生まれ育ったのは、滅びの宿命をまっとうするためだった――そんな主張こそが、「アブラハムの子孫はユダヤ民族である」という妄念を抱いている、この地上の、可視の、虚偽と欺きの諸教会が伝道している教義である――

それゆえに、自分たちの教会の授けるバプテスマを授かれば、「滅びの運命」から救われるだなどと、本気で信じ込んでは、やっきになって言いふらしているのある――

そんなたわ言、ざれ言、豚の寝言にアーメンできないからといって、そのような健全にして健康にして賢明なる心の働きが、「死に至る罪」であろうか?

私はアブラハムの血肉の子孫であるところのユダヤ民族としてソドムに生まれ、ゴモラに育まれたわけではない名もなき異邦人である――

私はアブラハムの系図的な子孫であるところのユダヤ民族を支持するような宗派や教義こそが「死に至る罪」であることを、自分の身をもって確かめた賢者である――

私はアブラハムがロトの安否を確かめるべくソドムとゴモラを訪れようともしなかった「罪」なる態度をもって、アブラハムなんぞまったく魅力に欠ける人間だと主張してはばからない善人である――

私はイサクを捧げようとしたアブラハムの背中よりも、ソドムとゴモラの瓦礫をかき分けようとする名もなき若者の背中の方がはるかにはるかに美しいと確信している、イエスにもっとも愛されている憐れみ深き友である――

これらすべては、私が「信仰」によって自分の人生を生きたところであり、「信仰」によって読んだ聖書の中から読み込んだところである――

こんな「信仰」を、いったい誰が私に与えたのだろうか?


それゆえに、

アブラハムがイサクを捧げたような「信仰」が、私にとってなんであろうか?

そんなものが、どうして粉々に破壊された人生を救ったりするだろうか?

そんなものを賞賛すれば、あれほど側にいたのにまるで嘘のように消えてしまった愛する人々が、私のところへ返って来るとでもいうのだろうか?

私がアブラハムやロトの不信仰な逃亡をなぞらえることなく、ソドムとゴモラの瓦礫を必死でかき分けつづけるのは、

けっして忘れられないからであり、けっして忘れたくないからであり、絶対に取り戻したいからであり、必ずまた会えると信じているからである――

アブラハムはロトを忘れ、ロトはアブラハムの心の中で死んだ――

ロトは嫁いだ娘たちとその婿たちを忘れ、それらの者たちはロトの心の中で死んだ――

私はそんなアブラハムやロトのような死んだ心をした者では、けっしてない――

そんな死者のような生者になど、ぜったいになりたいとは思わない――

だからこそ、こんな文章を書き連ねている――

それが私の「信仰と行い」である――

私はいったい誰にむかって、こんな「信仰と行い」を捧げようというのだろうか?


イエスがこの天地を創造した創造主だと――それゆえに、この世界を滅ぼすこともできる裁きの神だと――それが真理だとして、それがなんだろうか?

滅ぼされたものは罪人で、滅びの子で、滅びの運命の下に生まれた者たちで、滅びの運命がまっとうされたのだ――いやしくもそれが真実だったとして、それがなんだろうか?

それでもなお、私は生き残った――

今日までまだ死ぬことも、滅ぼされることもなく生き永らえている――

主なる神の憐れみによって破滅から救い出された人間は、瓦礫をかき分けることもしなかった――

主なる神に特別な好意を与えられた人間は、破滅の町を訪れてみようともしなかった――

もしももしも、それが「罪」ではなかったとしても、そんな人間たちをば、私はけっして愛することはできはしない――

そんな人間たちがいかな信仰による、いかな行いをもって自らを示そうとも、私の心には一抹の感動をば与えはしない――

「たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」という言葉のとおりではないか。


自分の罪のためであれ、

神の経綸のためであれ、

故郷を破壊され、人生も生活も身心もボロボロにされたからといって、

そのような「暴力」の前に、どうしてひざまずかなければならないのか?

そんな暴力がいったいなんだというのか?

そんなものにかしずかせたり、ぬかずかせたり、膝をかがめさせ、口を塵に押し付けさせたからといって、心の中まで従わせることができるだなどと、ほんとうに思っているのか?

すべてを奪い去った神だからといって、そんな神が「わたしの神」でなければならない理由がどこにあるというのか?

私の故郷を、生活を、愛する人を滅ぼした神がイエス・キリストであったならば、私はキリスト・イエスをおおいに憎もう。

それが罪だとしても、私は大胆にその罪を犯そう。

その罪を犯しつづけるためにも、イエスがキリストであり、キリストがイエスであることを、私は知りつづけよう。

なぜとならば、そこにしか永遠の命がないことを、アブラハムよりも確かな信仰によって、私は知っているからである。


「イエスが全人類の罪のために十字架にかかった」というのが真理だとして、それがなんだろう――

その全人類の中に私が含まれているとして、それがなんだろう――

私が失ったものが、イエスの十字架の死によって、返ってくるというのだろうか――

私の心が、イエスの十字架の死によって、いかように救われるというのだろうか――

私の破壊された生活が、イエスの十字架の死と、死からの復活によって、どのように建て直されるというのだろうか――

それでもなお、

それでもなお、私はイエス・キリストを知り続けるために、イエスの血を飲み続けよう。

イエス・キリストから知られ続けるために、イエスの肉を食べ続けよう。

私の心を生かし続ける食べ物があるとしたらば、それは永遠に生き続けるイエス・キリストの血と肉をおいて、ほかにないのだから。


どうか憎きイエス・キリストの血を与えよ、肉を与えよ。

憎んでも憎み足りないキリスト・イエスの、その霊を、今日も明日も永遠に与え続けよ。

それで私の心が生きるのならば、私も生きる。

私が生きれば、私の記憶の中の死者たちも、なお生きる。

私が永遠に生き続ければ、私が愛し、私を愛した者たちも永遠に生き続けることができるのだ。


アブラハムがイサクを神に捧げたように、私は「ソドムとゴモラの瓦礫」をイエス・キリストに捧げよう――

まるで焼野原のような私の中の、不可視の瓦礫の底から掘り出した、ぼろぼろになった私の心の破片をば、イエス・キリストに向かって投げつけてやろう――

それが「わたし」という人間の「けっして忘れたくない思い」であり、「絶対に取り戻したい思い」である。

故郷も、生活も、愛する人も、自らの右の手も失った私には、それしかない。

イサクなんぞいう恵みは、私には与えられていない。


私は「イサク」なんかいらない。

「イサク」よりもはるかにはるかにはるかに「スバラシイ神の恵み」を、私はすでに与えられているから。

故郷も、生活も、愛する人も、自らの右の手も失った私には、イエス・キリストという「神自身」が与えられているのだ。

それゆえに、すべてを失ってなお生き永らえた私は、「わたしの心」を、「わたしの神、イエス・キリスト」に捧げよう。

そのようにして、父なる神の憐れみによって死者の中から復活したイエス・キリストが永遠に生き続けるように、わたしの心も生きる、わたしも生きる、わたしの心の中にいる者たちも、永遠に生き続けることができる。

これが私の信仰と行いである。

このような確信を、復活し、昇天し、命を与える霊となったイエス・キリスト以外の、誰が私に与え得ようか。


愛する人が奪われたとしても、私が愛する人を愛していたという記憶は、誰も私から奪えない。

私が愛する者を愛していたように、私を愛する者が私を愛していたという追憶は、いつもいつでもいつまでも、私の宝であり、私の血であり、私の命である。

あんなに側にいたのに、それを一夜にして失ってしまったとしても、誰も私から思い出までは奪えない。

エッサイの切り株からひこばえが萌え出ずるように、私の心の底から、それは希望となって復活する。

だから私は、絶対に忘れない。

私が人を愛し、人からも愛されていた――それが罪深きソドムとゴモラの地における、取るに足らない出来事でしかなかったとしても、

忘れてしまえば永遠に、私の身も心も、ソドムとゴモラのようになるばかりである。

だから私はすべてを失ってなお、焼野原を掘り起こすのである。
...…


若者が語り終えた時、二人の男の一人が若者に答えて言った。

彼は若者の右の手に触れて、その傷を癒した者だった。

「あなたは朝(あした)、ツォアルの町に帰りなさい。そして、その地で…………」




追記:

この文章を書いてから、およそ半年の時を経て、ここに込めた私の思いに対するイエスからの便りのような、『神の義』を書かされた。

祈りに応える神は、必ず、祈りに応えるのである。

神の言葉は必ずその通りになる。

「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。

この福音は真実であり、神の言葉は必ずその通りになる。

2023.10.22


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