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起きよ、光をはなて


――
まことに、主はヤコブを憐れみ
再びイスラエルを選び
彼らの土地に置いてくださる。
寄留の民は彼らに加わり
ヤコブの家に結び付く。
もろもろの民は、彼らをその土地に連れて来るが、イスラエルの家は、主の土地で、もろもろの民を男女の奴隷にして自分のものとする。かつて、彼らを捕囚とした者が、かえって彼らの捕囚となり、かつて、彼らを虐げた者が彼らに支配される。
――



もしも、上の預言書にしたためられた言葉をもって、1948年に誕生した黙示録の獣のような殺戮国家のくり返す、詐欺と非道と暴虐の限りの正当性を訴えたり、支援擁護したりするというのならば、

わたしの神イエス・キリストと、父なる神に言えと言われたまま、はっきりと言っておく、

そういう人間の一人ひとりに対して向けられる神の言葉とは、以下のとおりである、

すなわち、

「わたしは、彼らに立ち向かう」と
万軍の主は言われる。
「バビロンから、その名も、名残も
子孫も末裔も、すべて断ち滅ぼす」と
主は言われる。
また、「都を山あらしの住みか、沼地とし
滅びの箒で、掃き清める」と
万軍の主は言われる。


わたしは、嘘や冗談のつもりで、こんなことを言っているのではけっしてない。

また、こう言ってみせたらさぞかし素敵に映るだろうとか、知的に、新鮮に、あるいは美しく、あるいは真実らしく聞こえ、あるいは多くの人々の歓心を買い、あわよくば数多の富をもたらしめるビジネスに繋げられるだろうとか――

おおよそ、そんな「人」ごときのご機嫌を気にしたり、「人」ごときの懐を当てにしたりする動機付けによって、文字を綴っているのでもない。

わたしはこれまでも、けっして「人」におもねるような書き方をしてこなかったように、これからも、けっしてけっしてたかが「人」の支援擁護を乞うような事柄をば、書くことはない。

わたしはただひたぶるに、わたしの神イエス・キリストから「言え」と言われたことを言うまでである。

これこそが、わたしの負ったひとつの歴史的使命であり、母の胎内にいた頃より永遠に生きるキリスト・イエスの父なる神によって、わたしの選ばれた理由であるからである。


だからわたしは、文字のとおり命をかけて、ここに訴えるものである。

たったひとりぼっちの、まるで無価値な虫けらのごとき存在であったとしても、たったひとつの命をかけて、書き記すものである。

冒頭の「ヤコブ」にせよ、「イスラエル」にせよ、それは系図的民族的遺伝的血肉的なユダヤ人のことなんかでは、けっしてない。

それ以上に、そんな系図的民族的遺伝的血肉的なユダヤ人をば、陰になり日向になり支援擁護したりするような、いかなる宗教集団のことでもなく、そのような共同体の信奉する、ありうる限りの宗派教義神学のことでもない。

さらにさらには、系図的民族的遺伝的血肉的なユダヤ人がかつてその身に施していた「切り傷にすぎない割礼」のような、「ガキの水遊びにも如かない教会のバプテスマ」を施したり、施されたりしながら、あーめんだの、はれるやだの、しゃろーむだのと踊り狂って、無辜の民をかどわかし、生き血を啜るように金と時と命とをだまし取っている、人殺しどものことでもない。

もしも、これらわたしのこの命をかけた訴えが、イエス・キリストと父なる神の目において「間違っている」というのならば、どうぞわたしの命など、虫けらを踏みつぶすようにして、取り去ってもらって構わない――たったいま、この瞬間においてでも。

わたしは、

系図的民族的遺伝的血肉的なユダヤ人たちが、系図的民族的遺伝的血肉的なユダヤ人であるという理由から「憐れまれ」、ふたたび「選ばれて」、それゆえに「主の土地で、もろもろの民を男女の奴隷にして自分のものとする」ことが許されていると主張し、実力行使に打って出るような、

そんな残虐に残虐を極めた人工国家にも、腐敗に腐敗を極めた言論空間にも、いかなる可視不可視の悪と堕落と穢れの世界にも、けっしてけっして生きることを願わず、資することも、死することも望まない。

あまつさえ、

系図的民族的遺伝的血肉的なユダヤ人たちを、系図的民族的遺伝的血肉的なユダヤ人であるという理由から、崇め奉ったりするような宗教集団のしているように、「彼らを捕囚とした者が、かえって彼らの捕囚となり、かつて、彼らを虐げた者が彼らに支配される」様子にあーめんしたり、はれるやしたり、

かてて加えて、

系図的民族的遺伝的血肉的なユダヤ人がかつてその身に施していた「切り傷にすぎない割礼」のような、「ガキの水遊びにも如かない教会のバプテスマ」を施したり、施されたりするぐらいならば、

その文字のとおり、自死した方がマシである。

それよりもなによりも、

系図的民族的遺伝的血肉的なユダヤ人たちを、系図的民族的遺伝的血肉的なユダヤ人であるという理由から「憐れみ」をかけたり、「選び」に与からせたり、そのようなユダヤ人を擁護支援する宗教を信奉する人間どもをば、「寄留の民」として「ヤコブの家に結び付」けたりするような、

そんな汚ならしいばかりの「罪なる神」にすぎぬのならば、

ぜったいに仕えることも、信じることも、礼拝することもない――

そんなシロモノは森羅万象の創造主でも、全被造物の救い主でも、万軍の主でも、いわんやわたしの神でもなく、ひっきょう、このわたしよりもはるかに罪深く、劣等にして下等なる神々、すなわち、悪霊であるばかりなのだから、それゆえに、このわたしはこのわたしの心の中で、その悪霊どもを徹底的に滅ぼし、滅ぼし、滅ぼし尽くしてしまおう…!

わたしは知っている、

わたしは永遠に生きるイエス・キリストの霊たる信仰によって、確信している、

すなわち、わたしが命をかけて知ろうとし、また知られようとしている神イエス・キリストとは、系図的民族的遺伝的血肉的なユダヤ人たちを、系図的民族的遺伝的血肉的なユダヤ人であるという理由から「憐れみ」をかけたり、「選び」に与からせたり、

また、そのようなユダヤ人を擁護支援する宗教を信奉する人間どもをば、「寄留の民」として「ヤコブの家に結び付」けたりするような、そんな悪霊みたいな神なんかでは、けっしてない――

むしろどうして、

「アブラハムが生まれる前から、わたしはある」という言葉のとおり、今も昔も永遠に生きている、諸人のための正義と公義と真実の神であり、

それゆえに、この世界のどの町のどの土地の上に生まれ落ち、どの民族のどの家のどの家族に属していようとも、いまいとも、

「憐れみ、憐れみ、憐れみ」という神の名前のそのとおりに、その人その人の父母未詳以前の霊に向かって、直に、直接に、その中間になんら介する存在なく、ただひたぶるに、ただひたぶるに「憐れみ」をもって、じゅんじゅんと語りかける、憐れみ深く、慈しみ豊かな神である、と。


わたしは知っている、

冒頭の聖書の一節をもって、だからもろもろの民を男女の奴隷にして自分のものとすることが、俺や私には許されているのだなどと主張するような、系図的民族的遺伝的血肉的なユダヤ人がいるとしたら、そんな手合いとは、ただのひとりの例外もなく、「偽りのユダヤ人」である。

「かつて、彼らを捕囚とした者が、かえって彼らの捕囚となり、かつて、彼らを虐げた者が彼らに支配される」のはあーめんなるものとして、自覚認識見当識の有無を問わず支援擁護する宗教集団も、「偽預言者」以外のナニモノでもありはしない。

そして、

わたしの幼少期よりの、いや母の胎内にいた頃からの、いやそれ以前からの不倶戴天とは、

このような偽りのユダヤ人たちと、偽預言者どもの巣窟「バビロン」に君臨する、「天上の悪の霊」のことなのである。


わたしはけっして忘れない、

幼少の頃より、この天上の悪の霊の、その三下たる偽りのユダヤ人たちが張りめぐらせたくもの糸に絡み取られ、偽預言者どもの返した蝮の卵を喰らわされて、苦しめられて来た――肉的にも、霊的にも、まさにましく捕囚とされ、奴隷とされ、騙され、惑わされ、奪われ、かどわかされ、虐げられて来た、

それゆえに、

それゆえに、わたしの神イエス・キリストは、そんなわたしのために、文字通り命を捨てて、わたしを囚われの身から救い出すべく、十字架にかかり、死に、葬られた。

そして、三日後に復活し、昇天し、父なる神の右の座について、自由と真実と永遠の命へと導く霊となって、わたしの心の内に永遠に住むことを決めた。

そのようにして、わたしを永遠に、永遠の神殿たるキリスト・イエスの中に住まわせるためにこそ。

もしも、

もしも、このようなわたしの言葉が、すべてなべておしなべて、純然たる妄想空想譫妄の類にすぎぬというならば、

わたしはいま、わたしの目に見える可視の世界――すなわち、偽りのユダヤ人たちとその取り巻きたる偽預言者たちとが、大手をふってのし歩いている「バビロン」のための、これ以上の奴隷の身分にも、捕囚の身の上にも甘んじつづけるつもりはない――

もしも、

もしもわたしの神がイエス・キリストでないのならば、

わたしの神イエスは「キリスト」ではなかったのならば、

イエスはキリストではなく、キリストはイエスでもなかったのならば、

ヤハウェは救いでもなく、

キリストの名前は憐れみ、憐れみ、憐れみでもなく、

イエスは死者の中から復活してもいなければ、キリストは昇天してもおらず、

昇天したイエスは父なる神の右の座についてもおらず、キリストは約束を守ることなくその命の霊であるところの”聖霊”を送ってもいない、

それゆえに、神の言葉は真実でもなければ、その恵みは口先だけのものに過ぎずして――――

もしもそれこそが、わたしの命をかけた祈りに向けた、「神の回答」であったというのならば、

もはやこの命に、一掬の未練も、無念も、遺恨もありはしない。

文字のとおり、

虫けらのように、

さりながら、

誇り高く、ただ誇り高く、死を選ぶものである。

「誇り高く」とは、わたしの神イエスがかつてそうしたように、ゴルゴタの丘の十字架のその上で、「父よ、我が霊を御手にゆだねます」と叫びあげながら、永遠に生きるように、死にゆくことである。


わたしはけっして忘れない。

わたしの神イエス・キリストによって誘われた、「荒野の旅路」で見つめたすべての光景を、けっして忘れない。

「見よ、わたしはあなたを、わたしのたなごころに刻んだ」という言葉のように、わたしもわたしの身と心と霊の上に、「荒野の景色」を刻みつけた。

山の上に昇らなければ見られない眺望があるように、地獄の鍋底のような「荒野」をさすらい歩かずには、けっして見ることも、聞くことも、食むことも、味わうこともできない、「人生」があるのである。

わたしは、自分で食べて自分で味わった、その「人生」をぜったいに忘れない。

それゆえに、

それゆえに、わたしは生きる――永遠に生きるように生きる――

最後の最後のその瞬間まで、心焼かれ、はらわたも焦がされながら生きて、生きて、生きながらえて――

祈り、祈り、祈りつらね――

働き、働き、働いて手を伸ばし――

そのようにして、自分のすべきこと、なすべきこと、人生をかけるべきこと、

すなわち、

託され、任され、委ねられた使命をば、思いを尽くし、心を尽くし、力を尽くして、やり遂げるばかりである。


わたしは知っている、

信仰によって、”霊”によって、キリスト・イエスの名によって、確信している。

すなわち、

「わたしを裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのもわたしの神である」、と。

それゆえに、

冒頭の「ヤコブ」とは、このわたしのように命をかけて、イエス・キリストを知る者のことであり、

「イスラエル」とは、このわたしのように思いを尽くし、心を尽くし、力を尽くし、命を尽くして、キリスト・イエスから知られた者たちのことである、と。

……



起きよ、光を放て。
あなたを照らす光は昇り
主の栄光はあなたの上に輝く。

見よ、闇は地を覆い
暗黒が国々を包んでいる。
しかし、あなたの上には主が輝き出で
主の栄光があなたの上に現れる。
国々はあなたを照らす光に向かい
王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。
目を上げて、見渡すがよい。
みな集い、あなたのもとに来る。
息子たちは遠くから
娘たちは抱かれて、進んで来る。
そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き
おののきつつも心は晴れやかになる。
海からの宝があなたに送られ
国々の富はあなたのもとに集まる。」

「島々よ、わたしに聞け
遠い国々よ、耳を傾けよ。
主は母の胎にあるわたしを呼び
母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。
わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き
わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して
わたしに言われた
あなたはわたしの僕、イスラエル
あなたによってわたしの輝きは現れる、と。

わたしは思った
わたしはいたずらに骨折り
うつろに、空しく、力を使い果たした、と。
しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり
働きに報いてくださるのもわたしの神である。
主の御目にわたしは重んじられている。
わたしの神こそ、わたしの力。
今や、主は言われる。
ヤコブを御もとに立ち帰らせ
イスラエルを集めるために
母の胎にあったわたしを
御自分の僕として形づくられた主は
こう言われる。
わたしはあなたを僕として
ヤコブの諸部族を立ち上がらせ
イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。
だがそれにもまして
わたしはあなたを国々の光とし
わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。

イスラエルを贖う聖なる神、主は
人に侮られ、国々に忌むべき者とされ
支配者らの僕とされた者に向かって、言われる。
王たちは見て立ち上がり、君侯はひれ伏す。
真実にいますイスラエルの聖なる神、主が
あなたを選ばれたのを見て。
主はこう言われる。
わたしは恵みの時にあなたに答え
救いの日にあなたを助けた。
わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて
民の契約とし、国を再興して
荒廃した嗣業の地を継がせる。
捕らわれ人には、出でよと
闇に住む者には身を現せ、と命じる。

彼らは家畜を飼いつつ道を行き
荒れ地はすべて牧草地となる。
彼らは飢えることなく、渇くこともない。
太陽も熱風も彼らを打つことはない。
憐れみ深い方が彼らを導き
湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。
わたしはすべての山に道をひらき
広い道を高く通す。
見よ、遠くから来る
見よ、人々が北から、西から
また、シニムの地から来る。
天よ、喜び歌え、地よ、喜び躍れ。
山々よ、歓声をあげよ。
主は御自分の民を慰め
その貧しい人々を憐れんでくださった。
シオンは言う。
主はわたしを見捨てられた
わたしの主はわたしを忘れられた、と。

女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
たとえ、女たちが忘れようとも
わたしがあなたを忘れることは決してない。
見よ、わたしはあなたを
わたしの手のひらに刻みつける。
あなたの城壁は常にわたしの前にある。
あなたを破壊した者は速やかに来たが
あなたを建てる者は更に速やかに来る。
あなたを廃虚とした者はあなたを去る。
目を上げて、見渡すがよい。
彼らはすべて集められ、あなたのもとに来る。
わたしは生きている、と主は言われる。
あなたは彼らのすべてを飾りのように身にまとい
花嫁の帯のように結ぶであろう。
破壊され、廃虚となり、荒れ果てたあなたの地は
彼らを住まわせるには狭くなる。
あなたを征服した者は、遠くへ去った。
あなたが失ったと思った子らは
再びあなたの耳に言うであろう
場所が狭すぎます、住む所を与えてください、と。
あなたは心に言うであろう
誰がこの子らを産んでわたしに与えてくれたのか
わたしは子を失い、もはや子を産めない身で
捕らえられ、追放された者なのに
誰がこれらの子を育ててくれたのか
見よ、わたしはただひとり残されていたのに
この子らはどこにいたのか、と。
主なる神はこう言われる。
見よ、わたしが国々に向かって手を上げ
諸国の民に向かって旗を揚げると
彼らはあなたの息子たちをふところに抱き
あなたの娘たちを肩に背負って、連れて来る。
王たちがあなたのために彼らの養父となり
王妃たちは彼らの乳母となる。
彼らは顔を地につけてあなたにひれ伏し
あなたの足の塵をなめるであろう。
そのとき、あなたは知るようになる
わたしは主であり
わたしに望みをおく者は恥を受けることがない、と。
勇士からとりこを取り返せるであろうか。
暴君から捕らわれ人を救い出せるであろうか。
主はこう言われる。
捕らわれ人が勇士から取り返され
とりこが暴君から救い出される。
わたしが、あなたと争う者と争い
わたしが、あなたの子らを救う。
あなたを虐げる者に自らの肉を食わせ
新しい酒に酔うように自らの血に酔わせる。
すべて肉なる者は知るようになる
わたしは主、あなたを救い、あなたを贖う
ヤコブの力ある者であることを。


「…ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。 ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。 「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」 「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、 その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」 「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。 ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。」




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