冷たいからだ ③
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イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。
――
だから、もう一度言っておく、
私の話はけっしてコムズカシイものではない。
たしかに私の文章はヘタかもしれず、その言い分たるやある特定の人々に対しての、純然たる非言以外のナニモノでもありはしないかもしれない。
さりながら、わたしの神イエス・キリストの父なる神の御前においても胸を張って言い得るものだが、たとえどんなにヘタであろうが無比の暴言であろうが、ここまで書いて来た私の話とは、けっしてけっして「理解に難い」ものではない。
冷たいからだは、冷たい心の表出である――
冷たい心とは、夢も希望も見いだせなくなった人の絶望や、愛も憐れみも覚えなくなった者の末期症状である――
こんな程度の話のどこがコムズカシく、どこに理解しがたい部分があるだろうか。
「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す」――
たとえ聖書なんぞまったく読んだこともなければ、読む気さえないような人であっても、このような一節ぐらい容易に解することができるのと同様である。
さりながら、
「頭で解する」ことと、「身をもって知る」こととが、まったく似て非なる行為であるように、
「物を喰らって糞を作る」ことと、「自分の人生という聖書を読みこむ(自分で食べて自分で味わう)」ことともまた、まことにまことに残念ながら、完全に根基を異にした議論でしかありえないのである。
それゆえに、ここから先は「あえて」、容易には理解しがたいような書き方を選んで、書き進めていくこととしよう――例によって例のごとく、「狭き門より入れ」という言葉に込められた真意に聞き従ってそうするようにと、「わたしは主である」という御方から言いつけられてしまったから。
そこでもう一度、おさらいしておくが、
「冷たいからだ」は罪の熟した姿であり、
「熟した罪」の行き着く先は永遠の死であり、
「永遠の死」とは神の憐れみの恒久的に欠乏した状態のことであり、
「神の憐れみの恒久的に欠乏した世界」において物を喰らい、糞を作り続けた長日月の働きの報酬こそ「冷たいからだ」なのである、
――それが、たとえば晩年のダビデや秀吉を苛んだ「心の冷え」にほかならず、日本史上最大の汚点たる団塊の化物たちもまた、ネンキンとともに支給され続けている「不安」の正体なのである。
このような「冷え」は、たとえ衣を重ね着しようが、もっとも美しい処女の裸を抱いて寝ようが、けっしてけっして思惑通りに取り去ることなどできはしない。
それが「罪」の恐ろしさであり、「インマヌエルの神が共に居ない者」の上に吹き入れられる、死の息吹なのだから。
同じ「死の息吹」とは、老い人の枯れかけた心身ばかりを標的にしたりするほど、憐れみ深いものではない。
いかなる処女でも若人でも勇士でも傑人でも、あるいは瑞々しく滴るような艶肌にこそ的を定めたようにして、ある時、寂としてその耳穴から吹き入れられる。
もしも、恒産と恒心を愉しんでいたはずのあなたにあって、かつてのダビデや私のごとく、まるであらかじめ決まっていた運命であるかのように吹き入れられてしまったのならば、はっきりと言っておく、かくなる上は、覚悟を決めて「死ぬしかない」。
死ぬことでしか、「死の冷え」を除き去ることなど、けっしてできないからである。
覚悟を決めて「死ぬ」ということ――これこそ、「狭き門」なのである。
がしかし――
「死ぬ」ということとは、
たとえば、聖書が一字一句正しいことなんかを科学的にも証明してみせようと血眼になっている、どこぞの永世バカが有償にて施すような「ガキの水遊びにも如かない教会のバプテスマ」なんぞをその身に授かって、「あなたはこの水の中で一度死に、葬られ、水から上がって来たことで新しい人として復活したのです」だなどいうアリガタキお言葉を、同じようにありがたがってみせたところで、
けっしてけっして「ほんとうに死んだ」ことになどなりはしない。
それゆえに、衣を何枚も重ねるようにして、ありうる限りの宗派教義神学の類を漁りまわり、教会から教会へと渡り歩き、献金を積み上げてみせたところが、「冷たいからだ」はいっこうに暖まることを知らず、あなたの望みどおりに「死の冷え」があなたから逃げ去ってゆくこともない。
それは、「狭き門より入る」までは、あなたの罪が赦されることは、何をどうあがき、もがき、狂いまわろうとも、けっしてけっして起こり得ないからである。
「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」
とは、そういう意味であり、
すなわち、
「子よ、あなたの罪は赦された」
上述のこのひと言を、あなたとわたしはいったいだれの口から吹きいれられたのか――
「ユダヤ人イエス」からか、「復活したキリスト」からか、
永遠に生きる神の憐れみの霊からか、あるいはいつか耳にしたことのある噂話を、ただただそのとおりに思い込みたいがゆえに思い込んでいるだけなのか――
そのような峻別が、おのずとなされていってしまうからである。
それも最後の審判とか、この世の終わりとかいう呼び名をもって知られる、「かの日」において峻別がなされるというのではない、
むしろむしろ、この地上においてこそ、ほんとうに「罪の赦し」というやつを得られたのかどうか、
それをこそ、まさにまさしく「冷たいからだ」によって選り分けられてしまうというのである。
がしかし――
すべて「冷たいからだ」に思い悩む人々よ、けっしてけっして、絶望するには及ばない。
なぜとならば、
「熱くも冷たくもなく、なまぬるいものを、神は口から吐き出そうとする」という言葉のとおりで、
「冷たいか熱いか、どちらかであってほしい」という願いをこそ、神は思い抱くものなのだから。
それゆえに、
重ね着した衣も、ふところに抱いた処女も、いっさいをかなぐり捨てたらいい。
ヨキンもネンキンも、そんなすべては「冷たいからだ」を「なまぬるく」するばかりで、それ以上の癒しを与えてくれず、それ以外の救いをもたらしてくれることもない。
「子よ、あなたの罪は赦される」――
どうかすべての「冷たいからだ」に蝕まれる人々が、わたしのように、このひと言をただひとり、「イエス・キリスト」の唇から聞き及ぶことのできるように。
その時、その人の上にも「わたしが主であることを知るようになる」という神の言葉が実現し、
彼もまた、「イエスはキリストであり、キリストはイエスであったこと」をその身をもって知るに至り、
そのようにして、「イエス・キリストの父なる神からも知られる者」となることができるように。
またその時、
中風の病人が立ち上がったように、「命の息吹」が吹き入れられて、「冷たいからだ」は癒され、なおかつ、心の深奥において「けっして尽きることのない火種」までもがもたらされ、「このようなことは今まで見たことがない」と驚いて、すべての病人が床上げし、神を賛美することができるように。
それゆえに、
「子よ、あなたの罪は赦される」――
このひと言を人に吹きいれて、そのとおりに実現させる力を持った存在とは、ただひとり、この地上においても人の罪を赦す権限を与えられたイエスだけである、
復活したキリストだけであり、永遠に生きるイエス・キリストの憐れみの霊だけである。
そうして、
けっしてけっしてけっして、ありうる限りの宗派教義神学の旗下に徒党を組んでみせただけの、当世のユダヤ教キリスト教によるいかなる教会なんかであり得はしない。
そのような、たかが「人」の浅知恵による、たかが「人」の集団たる教会のならわしに則った、たかが「人」の手によって按手された祭司だ長老だ牧師だ神父だ宣教師だ信徒だクリスチャンだかが、「子よ、あなたの罪を赦された」をそれらしく解説してみせたぐらいで、ほんとうに罪が赦されることになるというぐらいならば、はっきりと言っておく、ラクダが針の穴を通ることの方がまだ易しい。
そんな、しょせんはあてがいぶちのご高説なんぞを何千年何万年と額に押し頂いたところで、それは衣を重ね着したり、夜な夜な処女と同衾するような、マトハズレな愚行そのものであり、
それゆえに、「冷たいからだ」は冷たいまま、あるいは生ぬるいまま残りつづけることになる、いつまでもいつまでも、永久に――。
「一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、もし死なば、多くの果を結ぶべし」――
わたしの神イエス・キリストと父なる神から言えと言われたままはっきりと言っておく、
「死ぬ」とは、可視の教会の「ガキの水遊びにも如かないバプテスマ」を授かることではなく、
地上の教会のいかなるアーメンごっこに汗をかくことでもなければ、ユダヤ人ごっこに心血を注ぐことでもない、
そんなことをこの世の終わりまで続けても、「あなたの罪は赦された」ことには、けっしてけっしてけっしてなりはしない、
それにもかかわらず、あたかもそんな教会に献金を続ければ、まるで罪が赦されるかのごとくに触れ散らかすのは、それこそ純然たる詐欺であり、無比の虚偽であり、人と神と対する大罪であり、とりもなおさず「死に至る罪」以外のなんであろうか。
それゆえに、
もしもその者にあって衣を握りしめ、処女の柔肌を手放せないでいるのならば、
すなわち、「家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨て」られず、「金、健康、時間、家族、友人」ばかりを追い求めつづける生き方をやめられず、ぐずぐずと遅疑するばかりだというのならば、
同じその者とは早晩、「なにはの夢」と共に、「露と消えゆく」ばかりである。
同様に、
もしも地上の諸教会の宗派教義神学が、奉仕礼拝賛美その他諸活動が、聖書の研究学究分析が、そんな空を打つような拳闘が、自分の十字架を背負うことだと、イエス・キリストに従う道だと、全身全霊において信じて疑わないのであれば、
言えと言われたまま、もう一度はっきりとくり返しておく、
「冷たいからだ」は「冷たい」まま永遠に残りつづけ、
それは「畑にまかれた毒麦」のように、截然としてふるい分けられるための”しるし”となるばかりである。
―― 聞く耳のある者は聞くがいい。――