主人公はだれか?
主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。
「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」 しかしヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった。ヤッファに下ると、折よくタルシシュ行きの船が見つかったので、船賃を払って乗り込み、人々に紛れ込んで主から逃れようと、タルシシュに向かった。
主は大風を海に向かって放たれたので、海は大荒れとなり、船は今にも砕けんばかりとなった。 船乗りたちは恐怖に陥り、それぞれ自分の神に助けを求めて叫びをあげ、積み荷を海に投げ捨て、船を少しでも軽くしようとした。…
――これが、有名な「ヨナ書」の冒頭であり、物語全体の導入部分である。
で、大嵐によって、海が荒れに荒れ、船も砕けんばかりとなったその時、当のヨナは何をしていたのかといえば、「船底に降りて横になり、ぐっすりと寝込んでいた」…。
何とも、まあ、図太い神経をした男である。
しかし、次の場面ですぐに、この生死にかかわる大嵐の原因が、ヨナにあることが明らかになってしまった時、ヨナは、船の乗組員たちに向かって、このように言う。
「わたしの手足を捕らえて海にほうり込むがよい。そうすれば、海は穏やかになる。わたしのせいで、この大嵐があなたたちを見舞ったことは、わたしが知っている」…。
たったこれだけの言葉をもってしても、このヨナなる預言者が、なかなか一筋縄ではいかなかった人物だったということがうかがえる。
むろん、「わたしの手足を捕えて…」というヨナの言葉を、どのように解するかについては、それぞれ解釈の分かれるところであろう。なぜならば、その時の彼の心情など、聖書には詳しく書かれていないのだから。
しかし、「わたしのせいで、この大嵐があなたたちを見舞った…」というのならば、なにゆえに、嵐の海へむかって、自ら飛び込もうとしなかったのか――? なにゆえに、他人の手によって、「投げ込んでもらおう」としたのか――?
このような見方から、ヨナなる男を観察していくと、おのずとその人物像が浮かび上がって来る。
すなわち、大変に自分勝手で、利己的で、ずる賢くて、狡猾で、したたかな魂胆をしている、という人となりが。
だって、そうではないか。
「わたしのせいで…」とのたまうならば、自ら海にむかって飛び込むが筋というものだ。
それを、わざわざ他者の手をもって「投げ込ませる」という形にこだわったところに、ヨナの計算高さがうかがえる――自分は本当は死にたくなどなかったが、他者によって「死なされた」という「事実」を作ろうとした、そんな、聖書の中の登場人物にしばしば見受けられる、したたかさが…。
もちろん、嵐の海の中へ自ら飛び込むことが恐ろしかった、というような、ヨナの人間らしい心情に寄り添った解釈も、できなくもない。
しかし、このヨナなる男、曲がりなりにも、天地の創造主であり、万軍の主である神の「預言者」なのである。それゆえに、生死にかかわる大嵐が、神の手による仕業であることくらい、「預言者」には分かりすぎるほと分かりきっていたはずである。
それなのに――
いや、だからこそ――
ヨナは、どうしてもどうしても、他者の手によって「海に投げ込んで」もらいたかったのだ。
神に必死に祈ることによって、嵐を静めてもらおうとか、赦しを乞おうとかするかわりに、むしろ自分の身を「海に投げ込んで」もらいたかった。つまり、(自死という方法以外の方法で)「死にたかった」のである。
それこそが、ヨナというちっぽけな人間による、神への「必死の抵抗」だったからである。
そして、これこそがまた、ヨナ書全体を通して見られる、「ヨナと神」、あるいは「人間と神」という構図である。
いかにヨナという人間が、神に対して「怒り」をあらわにし、「抗議」をくりかえしているか――
なにゆえに、「主よ、わたしの命を取ってください」とか、「生きているよりも、死んだほうがましです」というような言い方をもって、「反抗」するのか――
自分の命を盾にしてまでして、神と争おうとする「理由」はなんなのか――
ある一人の人間の、そんな執拗な姿から、いったい何が語られようとしているのか――
それを考え、想像すること、それがヨナ書の醍醐味なのである。
それゆえに、
この預言書には、あえて、わざと、はなはだ意図的に、何も書かれていない。
ヨナの「抗議の理由」を、知る鍵となるであろうものが、何も書かれていない。
たとえば、「大いなる都ニネベ」とは、いったいどんな都であるのか――
「彼らの悪」とは、いったいどんな悪であるのか――
そういった詳細のいっさいが、「ヨナ書」という預言書の中には、書かれていないのである。
もしそれが、他の預言書のようにすこしでも書かれていたならば、ヨナの「死にたくなるほどの怒り」や「反抗心」についても、同情しやすくなるであろうし、
神がなぜ裁きを下そうとしているのかについても、分かるはずなのに――、
なぜか、なぜか、「ヨナ書」においては、それがまるっきり、書かれていないのである。
さながら、読者に向かって、知りたければ自分で調べて、自分で想像し、自分で考えよ、と言わんばかりに。
もしくはまるで、そんな事は重要ではない、とでも言っているかのように。
で、筆者はあえて、後者を前提にして、考えてみたい。
もし仮に、「そんな事は重要ではない」というふうに、「ヨナ書」を読んだとしたら、どんな結果になるであろうか、と。
すなわち、
主人公たるヨナに関わるいっさいが、「重要ではない」としたら、どうだろうか?
ヨナというちっぽけな人間の心情や感情、彼の抱えた内的問題、物語を通して見られる人間的変化など、そんなすべてが「重要ではない」としたら?
ヨナの生きた時代背景も、大いなる都ニネベという舞台設定も、その都で行われていた悪の内容も、――そんな「人間的な、あまりに人間的な」いっさいが、「重要ではない」としたら?
つまり、
筆者が、冒頭よりつらつらと述べ連ねて来たような、ヨナの人となりや、彼が神に怒り、抗議をくりかえすその理由にいたっても、すべて、すべて、すべて、「重要ではない」としたら――?
もしそうであるならば、「ヨナ書」とはいったい、何を言いたいがために、書かれた預言書なのであろうか?
簡単な答えである。
この世の文学作品のように、「人間の世界」が重要でないとすれば、「人間」の代わりに焦点を当てるべき対象など、あと一つしかない。
そう、「神」である。
すなわち、ヨナ書とは、「人間」ではなく、「神」にこそ焦点を当てるべき預言書である、ということでなのである。
で、こんな「肩すかし」みたいな結論は、おそらくは聖書全体に対して言えることで、あるいは、そのようにこそ、聖書なんていう不思議な、不可解な、不可思議な書物は、読むべきなのであろう。
いみじくも、神はヨナに対して、「さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ」と言っている。
つまり、大切なのは、「わたし(神)の語る言葉」の方であり、人間の心や感情や内的問題やではない、ということである。
そのもうひとつ証拠として、ヨナは、この物語を通して、まったく内的に変化していない。
生死にかかわるような大嵐に遭遇し、荒れに荒れ狂った海へと放り込まれ、巨大魚に飲み込まれ、その腹の中で三日三晩を過ごし、そのようにして死にきれずに生きながらえるような、きわめて特殊な体験を経たにもかかわらず、ヨナは人間的にいっさい成長していないし、彼の「怒り」は収まることがなく、「抗議」がやむこともない。
こんな登場人物も、珍しい。
アブラハムやヤコブをはじめ、聖書の中には人間的に欠点だらけの登場人物たちがくりかえし、くりかえし登場するが、ヨナのようにまったくと言っていいほど「変化」の見られない人物が、しかも預言者と言われた者において、他にいただろうか?
そんなヨナを、「他山の石」とみなし、「我が振り直す」ようにして、読み込むことも可能である。もしかしたら、それが「ヨナ書」の教訓なのかもしれない。
しかし、だったらなおのこと、ヨナの人となりを、心情を、内的問題をあぶり出した方が、説得力が増すのではないだろうか。「ヨナ書」は、一見おとぎ話のようでありながら、けっしてステレオティピカルな寓話なんかではない、紛れもない史実なのだから。
もし、「ヨナ書」に限ってことさらに、人間ではなく「神」に目を凝らすべき預言書だとするならば、いったい何が見えるからなのか?
これも、簡単な話である。
神は、ヨナという人間的に問題のある預言者を、大いなる都二ネベに遣わした。
そんなヨナをして、「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」などという、おおよそ預言とも言えないような、「主の言葉」を語らせる。
その途端、ニネベの人々は――十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜が――、「こぞって神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった」のである。
つまり、
すべては、神が仕組んだ「寸劇」だった、ということである。
なぜなら、「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」なんて、そんなフザケタ預言があるだろうか。
しかも、そんなフザケタ預言を、心の底ではまったくやる気のない、神に対しても反抗的な預言者が、いったいどんな情熱をもって語ったというのだろうか。
それでも、
それがどんなにかフザケタ預言のように見えたとしても、それが「主の言葉」である以上、その力は絶大なのである。
それを聞いた、大いなる都に生きとし生ける「十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜」を、ことごとく、悔い改めさせることができるほどに。
また、
預言者が、いかにやる気のない、反抗的な人間であったとしても――従順であろうが不従順であろうが、不徳であろうが有徳であろうが――、関係ないのだ。
ヨナ(人間)がならず者のような預言者だったとして、それがなんだろう。なげやりに、ふてくされたように、つばでも吐くように語ったとしても、「主の言葉」を語った以上、その言葉の力は、絶対的な力を発揮するのだ。
なぜなら、
人の心を知り尽くしているのは、ただ神のみだから。
「主の言葉」を聞いた者の心を、かたくなにすることができるのも、やわらかく従順にすることができるのも、ただ神のみだからである。
ヨナを嵐の海へ投げ込んだ水夫たちが叫んだ、「主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから」という言葉は、けっして偶然ではなく、あえて、わざと、はなはだ意図的に挿入されている。
この言葉こそ、ヨナ書の真の目的であると言ってもいいほどに。
それゆえに、
「ヨナ書」は、ヨナ(人間)が主人公のようで、実はそうではない。
ヨナは、物語を通して、これという立派な働きをしていないし、神と関わったからといって、これという内的成長があったわけでもない。
始めから終わりまで、働いているのは神である。
海に大嵐を放ったのも神であり、嵐を静めたもの神である。
死のうとしたヨナを巨大魚に飲み込ませたのも神であり、巨大魚から吐き出させたのも神である。
大いなる都二ネベの十二万の民の心を変えたのも神であり、悔い改めさせたのも神である。
そんな神にむかって怒り、抗議をくりかえすヨナのために、とうごまの木を生じさせたのも神であれば、虫に命じてとうごまの木を食い荒らさせたのも神である。
まさに、まさしく、まちがいもなく、「主よ、すべてはあなたの御心のまま」なのである。
「ヨナ書」の主人公は、ヨナ(人間)ではなく、ヤハウェ(神)である。
だとするならば、
ここでたった一つ、沸き起こって来る疑問にたいして、どのように答えたらいいのだろうか。
もし、「すべては神の御心のまま」であるというならば、いったいのヨナ(人間)の働きなんて、何のためのものであろうか――
この世界における、汗と涙と血のすべては、いったいなんのためのものだろうか――と。
それも、はなはだ簡単である。
「ヨナ書」を見れば、この世界におけるあらゆる事象が、しょせん「思い煩うに値しない」ものでしかないことがわかる。
ヨナが、どんなにか預言者らしからぬ人間であったとしても、
誰よりも自分勝手で、利己的で、ずる賢くて、狡猾で、したたかな魂胆をした、ならず者であったとしても、
そのために嵐の海に投げ込まれ、三日三晩、巨大魚の腹の中で過ごすような苦しみを味わってなお、なんら内的成長が見られなかったとしても、
それでも、
「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」という「主の言葉」を語ったのは、ヨナだけであり、ヨナにほかならないのである。
そんな、ただの「声」にすぎないような人間の働きであったとしても、
天地の創造主であり、万軍の主である神は、
ちっぽけな、あまりにちっぽけな人間をきっかけにして、「大いなる都」を滅びから救い、「右も左も分からない十二万」の人間たちを、災いから守ろうとするのである。
それが聖書である。
ヨナは、人間的にもっとも魅力のない預言者だったかもしれない。しかし、曲がりなりにも、十二万人もの人間を滅びから救う預言をしたのだから、だれよりも偉大な働きをした預言者だったとも、言えるかもしれない。
それが聖書である。
「すべては神の御心のまま」に仕組まれた、シニカルでコミカルな寸劇である。(余談だが、そんな寸劇がトラジカルなのは、ほかならぬ「人間の世界」が舞台だからである。)
それが聖書である。
だから、
「怒りのあまり狂い死にそう」だというヨナが、神に向かって投げ放った文句もまた、面白い。
「主よ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです…」
「恵み深く、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされる」神だからこそ、ヨナは怒っている、というのである。
神に反抗をくりかえす人間が、「神の本質」をきちんと言い当てて、言い表して、それゆえに怒っているというのである。
こういうシニカルで、コミカルで、そして自分こそが主人公であるところの「文学作品」を書いてしまうのだから、ヤハウェ(神)こそ、誰よりも「したたかな」小説家だということだ。