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人生という聖書
『命をかけた祈り』という文章を書いて、文字通りのことをした。
もちろん、明日はどうなるかなど、人間という身分に甘んじている以上は誰にも分からない。しかしそれでも、少なくとも今日まで生き永らえた。生き残る、生き延びる、生き永らえる――どれが適切な言葉であろうか知らないが、とまれ、今日という日を恵まれたことによって、このnoteにおいて発表するつもりはないが、自分でも満足のいく新しい文章をしたためることを得た。それを書き終えたとき、さながら神に祝福されたような気持ちがした。…
で、『命をかけた祈り』という文章の中に書いたことであるが、聖書とは、信仰によって読むものである。
原語をもって読めば分かるということはなく、知識をもって調べれば理解できるというものでもない。これは自明すぎるひとつの真実にすぎないが、研究や分析や考査やの蓄積が、いかなる真理に到達するための近道でもない。
「神の霊以外に神のことを知る者はいない」と書かれている通りで、たかが人間ごときの猿の浅知恵をもってしては、神の「思い」を知ることなど誰にもできはしない。
同様に、「正しい者は信仰によって生きる」と書いてある通りで、ほかのなによりも、「人生」という名の聖書を信仰をもって読み込ない限りは、たとえ一万年を研究分析に費やしてみたところが、永久にそこに書いてあることなど分かりはしないのである。
だからこそ、あえて言うのだが、そんなしょせん「本にすぎない聖書」以上に、「自分の人生という聖書」を信仰をもって読むことこそが、「この身をもって、わたしの神とあいまみえる」という行為なのである。
もう一度言うが、「本にすぎない聖書」よりも、「自分の人生という聖書」を信仰をもって読み込むこと――これこそが、「わたしの神」であるところの「イエス・キリスト」と、「父なる神」にあいまみえる道なのである。
私の言うことが分からないならば、イエスの「善きサマリア人のたとえ話」を分かるようになるまで読めばいい。祭司やレビ人といった「本の聖書」にばかり親しんでいた者と、倒れた旅人を助け起こした「憐れみ深いサマリア人」と、どちからが「神の思い」を知り、体現しえたのか…。
それゆえに、
神とは、聖書の中でのみ出会うべき存在ではけっしてない。イエス・キリストを死者の中から復活させたのは、ほかでもない、父なる神の「憐れみ」の力なのだから。「憐れみ」は、原語で書かれた聖書においてのみ表現されているものでもなく、特殊な訓練を要する技術の類や、長年に及ぶ研究分析やが解き明かすべき秘密の類でもない。
――私は、ほかならぬ「信仰」によってこのようなことを書いている。だれかの受け売りでもなく、ナンバンセンジの神学なんかの翻訳や解説なんかでも、けっしてない。
少なくとも私は、十字架上で死んだイエスを父なる神が「憐れんで」、死者の中から復活させたとハッキリ表現しえた人間を、私以外に知らない。だから、私ではなく私の「信仰」こそが、私をこう言わせているのである。
それでは、信仰とは、いったいなんだろうか。
信仰こそは、神の霊である。
復活し、昇天したイエスが父なる神にお願いした聖霊のことである。
イエスを死者の中から復活させた方の霊のことである。
「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」と書いてある通りである。
それゆえに、
信仰という神の霊が己の内に住まわっていないまま、本の聖書でも人生という聖書でも、読み解いたような気になっていると、――贖宥状を発行してみたり、予定説を提唱してみたり、ナッシュビル宣言をのたまってみたり、ヘブライ語の解説なんぞにあぐらをかいてみたり、アブラハムの子孫はユダヤ民族だとカンチガイしてみたり、肉の割礼にすぎない水のバプテスマを授けるだけの教会ごっこに明け暮れてみたり、――おおよそ、こんな程度のちゃんちゃらおかしい「ごっこ」に熱を上げ、己のやっていることも言っていることも理解できないまま、一生をまっとうするハメになるのである。個人的には、そんなマトハズレな人生だけは、絶対にごめんこうむりたい。
それゆえに、
「神は人を分け隔てしない」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値するものである。
「叩けよ、さらば開かれん」という言葉もまた真実であり、その通りに、その者がイエスの名によって父なる神に「聖霊」を祈り求めるならば――熱心に祈り求めるならば――「父は与えてくださらないはずがあろうか」。
そして、信仰という聖霊を与えてもらったなら、その神の霊がすべてについて教えてくれる。
もしも、この世のだれよりも現実主義者(リアリスト)たらんと願うのならば、熱心に聖霊を祈り求めることだ。しょせん人間ごときの心では、「現実」を正しく認識することさえ、満足にできはしないのだから。「この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった」と書いてあるとおりである。
『人はパンのみにて生くるにあらず』という文章にも書いたことであるが、40年の荒野の旅とは、まずもって、「現実を正しく認識する」ための「訓練」であった。
そして、その上でなお、「(現実に、人間に、神に)絶望することなく、神の口から出るひとつひとつの言葉を信じて生き延びること」を、その身をもって、その人生をもって「体得」させるための、「神の恵み」たる旅路であった。
がしかし、まことに残念ながら、神の選民たるイスラエルの民にあって、そんな神の恵みをことごとく無駄にしてしまった。
――それゆえに、イスラエル王国はかつて侵略され、国は破れ、民は殺され、生き残った者も捕囚として他国へ連れ去れたのである。
――それゆえに、そんな恥辱の歴史から、栄光の未来へと、すべての民を導いてくれるはずの「メシアたるイエス」を、十字架にかけて殺してしまったのである。
さりながら、
神の道とは、ただひとつだけしかないような、不自由なものではない。「道」というと誤解を招きやすいので、現代風に「オプション」とでも言い換えておこうか。
要するに、神は自由であり、その自由によっていかようにでも歴史を紡ぐことができるし、またできたのである。
つまるところ、かつてイエスが十字架上で殺されたのは、ただそれだけの「オプション」しかなかった、というわけではないのである。
イエスが十字架上で死なない(むしろ、生き残る、生き延びる、生き永らえる)――そのような「歴史」、「道」、「オプション」が存在してもよかったのだ。
イエスが老年まで生き永らえて、子孫を残し、その子孫から新しい国が誕生して――といった、まったく違った物語がかつて2000年前に紡がれていたとしても、なんらオカシナ話ではない。なんどでもくり返すが、「神は自由」なのだから。
しかししかし、まことに残念ながら、かつて私の同胞の上に恐ろしい原子爆弾が投下されたように、ユダヤ人イエスの頭上には茨のかんむりが被せられ、五体を貫かれ、十字架の上にはりつけにされて殺されたのである。
しかし、憐れみ深い神は、そのような人の子の姿をば、憐れんだ。
父なる神は、そのような肉なるイエスをば憐れんで、死者の中から復活させた。
これによって、神の憐れみは死で終わることのなく、死よりもはるかに強く偉大な力――ただひとつの、死に打ち勝ち得る力――こそ、神の憐れみであることが、イエスという一人の人間において他のいかなる物語よりも生き生きと顕されたのである。
「キリストは死者の中から復活され、命を与える霊となった」と書いてあるとおりである。
それゆえに、
私がいま生きているのは、そのような「命を与える霊」によって、命を与えられたからである。その命こそ、信仰という神の霊である。
だから、私が生きているのは、この「現実」の世界ばかりではない、「永遠の命」の中をこそ生きているのである。なぜなら、キリストの与える命とは、永遠の命にほかならないから。それが「信仰によって生きる」ということだから。
それゆえに、
私は同じ信仰によって、父なる神の「憐れみ」を信じている。
まるで生きるに値しないような「現実」の中にあっても、――いや、そんな現実だからこそ、ただひとつ神の「憐れみ」を信じて、祈るのである。「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」と書いてあるとおりである。
自分のためばかりでない。
かつて、悪魔の火によってまるで蒸発するようにして焼き殺されたすべての同胞のために、真っ黒なへどろのような悪魔の雨によって内臓を破壊されて、狂いまわるようにして殺されたすべての先祖のために、神の「憐れみ」を祈り求めるのである。「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」と書いてあるとおりだから。
つい先日亡くなった、とある高名な政治家がいた。彼はまた、高名な小説家でもあった。
その者の晩節に語った言葉とは、「来世なんてものはない。死んだら終わり。虚無。意識が途絶えたら何を認識できますか。死んじゃったらそれっきりなんだ。それでいいじゃないか。さっぱりして。」というものだった。
別段、有名無名を問わず、個々人の信じる事柄について、いちいち論うような不粋をしようとは思わない。
がしかし、これだけは言っておくが、一世を風靡した政治家であろうが小説家であろうがなんであろうが、そんな程度の信仰では、原爆で殺された同胞の魂を救うことはできはしない。よしんばその信仰の正しかったとしても、そこには一抹の「憐れみ」さえ存しえないからである。
それゆえに、
私は私の先祖のためにも、父なる神に、イエス・キリストの名によって、今日も「憐れみ」を祈り求めるものである。
断っておくが、私はそうせずにはいられないからしているのであり、それは私の中でわたしを駆り立てている、「わたしの神の霊」なのである。
もしも私が「わたしの神」にあいまみえることもなく、この身をもってイエスのキリストであることも、父なる神の憐れみ深き神であることも「見る」ことのなかったならば、広島にも長崎にも縁もゆかりもない人間が、どうしてヒロシマとナガサキのために祈ろうなどと思うだろうか。
だからこそ、
「肉なる話」に限って述べるのであれば、肉なる私は、肉なる私の同胞のための――なかんずく、ヒロシマとナガサキのための――「とりなしの祈り」にしか、興味がないのである。
だからこそ、
「霊なる話」においてはよりいっそう、イスラエルとかユダヤとかいう可視の、外見上の、血肉的な要素については、まったくもって、かすかな興味も、かそけき関心も、蜂の頭ほどの好奇心をも、抱かせられるということがないのである。
「信仰の話」として、ここでハッキリと言っておくが、私はいかなる教会にも、神学だの教義だのといったあらゆるキリスト教的な何ものにも、まったくもって、霊的に惹かれることがない(むしろ、さながら「選挙演説」みたいな愚にもつかないおしゃべりに明け暮れながら、人々から「献金」という「投げ銭」をせしめて恥ずかしくないのだろうか)。同様に、ヘブライ語も、イスラエルの歴史も、伝統も、文化も、祭りも――すべて、なべて、おしなべて、どうだっていい。
私はただ、私の仕事を坦々と、粛々と、正々堂々と、こなしていくだけである。
「主こそわたしの受ける分」という言葉とおりで、私は私に与えられた「信仰」を守り抜き、己の任務の完遂を目指して、前だけを見つめて走るばかりである。
主なるわたしの神は、憐れみと慈しみの神である。インマヌエルのイエス・キリストである。イエスを死者の中から復活させた憐れみ深き父なる神である。
それゆえに、「わたしの受ける分」とは、憐れみ深き聖霊であり、その憐れみの指し示す方へ、方へと、今日もひた走るのである。