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聖書よりも・・・(※善きサマリア人 2)
誤解を招きやすい言葉には違いないが、
わたしは聖書よりも、
神の国を祈り求めたい。
どういう意味かというと、
聖書とは、ある程度の知能と学問が無ければ、理解できない。
聖書を手に取る機会も必要で、聖書を読み込む時間も必要だ。
ということは、聖書は誰でも読めるようで、実は「限られた人」のための贈り物なのだ。
その聖書に書かれている、「すべての人は神によって生きている」というイエスの言葉は、どういう意味か。
神はどのように、「聖書を読めない人」をも生かしているのか。
それは、やはり聖書の中で、善きサマリア人のたとえ話で語られたように、
「憐れみと慈しみ」をもって、生かしているのである。
祭司もレビ人も、見捨ててしまった、倒れた旅人を、「憐れに思ったサマリア人の心」として、神は、この世界全体に遍在しているのである。
聖書の言葉を通して、神が語りかけているのは、間違いない。
しかし、その聖書を手に取ることさえできない「倒れた旅人」に対しては、「憐れに思ったサマリア人」として、神は語りかけるのである。
そんな「憐れに思ってくれるサマリア人」が、自分の周りにいない、と嘆く時にこそ、「憐れみと慈しみ」である神に向かって、堂々と、文句を述べるべきだ。
神は、人間を憐れみたくて、慈しみたくて、いつもウズウズしている神なのだから。