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自社に落ちた創業社長!? 営業としてのキャリアと中国赴任

こんにちは。WizWeの森谷です。
WizWeはWEICの語学事業部をMBO(マネジメント・バイアウト)して事業継承しています。

WEICは、Waseda Educational Institute of Chineseの略であり、早稲田大学の文学部の総合研究所から出ているベンチャーでした。創業当初は中国語のeラーニングを主力商材としており、私がWEICに入社した頃は、第二の矢として、「超速日本語」という中国人向けの日本語eラーニングをリリースし、中国市場で販売を開始するタイミングにありました(超速日本語は2007年秋にリリースされていました)。

私自身が、早稲田大学文学部出身であったことと、当時同様のステージ(WEBサービスで海外に打って出るステージ)にあるベンチャーが他になかったため、WEICで働くチャンスを得ると心に決めました。私自身、その直近でフィリピンで海外法人の立ち上げの責任者を務め、大きな失敗をしていたので、もう一度、海外で勝負したいという思いがありました。

社長、自社採用に落ちる!?

WEICしかない!そう心に決めて、当時WEICが幸いにも営業職を募集していたため、気合を入れて採用に応募し、落ちました。。。

WEIC 高橋ビル

(当時WEICのあった早稲田駅近くのTAKAHASHI BLDG)

最初に書いたとおり、WizWeはWEICの語学事業部をMBOして事業継承していますので、一つ、私に珍しい点があるとすると、私はWizWeの創業社長であると同時に、自社の採用に落ちた社長でもあります。

Wの字のように、人生は山谷いろいろあるけれど、チャンスを作りにいこう。きっとチャンスは巡ってくるのでその時を活かそう。というWizWeの社名に込めた思いは、「気合いを入れて応募したら、いきなり面接で落ちる」「でも、その状況からなんとかがんばる」といった、私自身の山あり 谷ありの人生のターニングポイントも表現しています。

落ちたのにどうやって入社したのか。。。(その後、自分がMBOして社長になろうとは!?その時は知る由もなく、採ってもらうことに必死でした)

以下のような経緯です。

採用募集中!とWEICホームページにあったので、これは直接電話で熱意を伝えるべきと考え、電話をして、入社したいという希望をお伝えしました。すると「すいません。営業職は埋まってしまいました。ごめんなさい」ということで、あっさり、落ちてしまいました。希望と気合の電話は、いきなりの不合格という結果でした。その間、実に5秒。。。

しかし、「WEICしかない」と考えていましたので、自分の海外での修羅場経験や、どういった観点でWEICに貢献できるか、そして、何でもやるので、チャンスが欲しいとメール文に記載し、それに紐づく職務経歴書を作成して、WEICへ送りました。

もし、リアクションがなかったら、社員の方や社長に会えるまで、会社で毎日待ち伏せして、打ち手を全て尽くして、無給でも何でもよいのでチャンスをもらう交渉をしようと考えていました。

実際の所は、WEICの内山社長がそのメールを見てくださり、採用担当の方から「社長が一度お会いしますと言っています」という連絡を受けました。面接を受けると、社長はすごくオーラがありました。

事前にWEICのことや社長のことは、一通り、情報を読み込んでいましたが、苦学生で学費を払うためにひたすらアルバイトで働く中で、自分で経営する方が収入が大きいということで、大学時代に学生起業で経営経験も積んでいらっしゃいました。内山社長は、実は、大手総合商社の内定もある中で、大学の先生にWEICをつくるので手伝って欲しいと頼まれ、内定を辞退し、WEICの起業をした方でした。

私の採用面接当時内山社長は26歳。私より2つ年下ではあるものの、既に経営者のオーラがありました。WEICは内山社長がトップの会社ということは、一瞬の会話時間で見てとれました。面接の際に、私のおかしな経歴や、直近の海外法人の立ち上げ&挫折経験では、中途半端な状態で離職しているところなど、直せるのか、がんばりきれるのかという質問がありました。

前述通り、私は、WEICの前の経験では、スタートアップかつ海外で立ち上げ、現地法人社長という職責で見事なまでに失敗の連続。。。その後に私もその会社を離職となり、深く落ち込み、失敗の要因含め、かなり分析し内省していました。ある意味、失敗の整理と修正点は明確になっており、マインド面も座った状態でWEICに応募していました。面接では質問に対して「そういった気になる点も全て直して、ゼロからがんばります。」と答えました。

面接の最後には、社長本人の口から、内定が出て、去り際に、「仕事きついですよ~。大丈夫ですか~。」とニヤリと笑った顔がとても印象的で、今も心に刻まれています。

営業キャリアの始まり

WEICに入社して最初の仕事は、中国のIBM様向けに日本語eラーニングの提案をする仕事のサポートでした。また、日本語のeラーニングを日本の法人に販売する仕事にも従事しました。

営業職としての入社でしたので、売上をつくることが私の仕事になります。しかし私は実は営業は未経験。バックオフィス業務や、業務フロー整備、カスタマーサポートなどの運用が一番太い経験でした。

営業はゼロから学ぶしかありませんので、当時のWEICの取締役に光通信系の会社の営業マニュアルをお借りして、それを読み込み、あとはリクルートの大塚寿さんが書かれた、『オーラの営業』という本を勝手に自分のバイブルにして、営業部の仲間からもらった、日本の大手企業のリストへ、ひたすらテレアポを繰り返しました。

「外国籍社員様向けの日本語のeラーニングです」というセールストークなのですが、そもそも2008年の日本において、外国籍社員採用は、日本の大学を卒業した留学生に限られるケースがほとんどで、日本語研修が必要という企業はほとんどありませんでした。

可能性がありそうだったターゲットは、大手ソフトウェア会社です。日本から中国にオフショア開発を出していました。稼働初日のテレアポで、当時の日立情報システムズ様と商談機会を得ることができました。初日にアポがとれたので鮮明に覚えています。その時は受注につながりませんでしたが、後にお客様となり、日立システムズ様と名前を変更された後も、お客様として直近まで取引が続いていました。10年以上のご縁となります。

また、留学生採用をしている企業は日本語ニーズがある可能性があるということで、外国籍留学生採用の展示会へ行き、ブースに立っている会社の担当者様に飛び込み名刺交換をお願いするということをやりました。

いきなりの名刺交換のお願いで、営業までやってしまっているので、冷たい反応がほとんどでしたが、そこで大和証券様の外国籍社員採用の担当者様と名刺交換ができました。当時は受注につながりませんでしたが、後にこの1枚の名刺が、会社と自分を救うきっかけになりました。

その他、留学生の日本語教育という軸で、株式会社オリジネーター様が企画される講演会に参加し、オリジネーター様と情報交換する間柄となりました。

オリジネーター様とは、後に様々な企業での大型日本語トレーニングをご一緒することになるのですが、私がWEICから語学事業をMBOした際には、エクイティ投資をしてくださり、株主としてバイアウトを支援してくださりました。


試行錯誤の中国赴任

日本での営業活動で、日々のテレアポをずっとやっていたことや、日々日本語ニーズがありそうな会社をリサーチしていたことが評価され、WEICが上海に立ち上げた法人で日本語eラーニングの開拓をする際の人員として上海へ赴任することになりました。(※実際にテレアポは、電話をかければ、かけただけ、新しい出会いにつながっていました。ずっと継続していたことが評価につながりました)

中国での赴任時代の仕事は、WEICと別の会社の合弁事業というガバナンスの複雑性と、国籍が異なる皆さんのマネジメントという点で、とても苦労が多かったように思います。(中国の皆さんを営業部員として採用して、現地の中国ソフトウェアハウスに営業をかけるという、外国企業から売上を取りにいくアプローチをしていました)

私が営業管掌の副総経理というポジションとなり、日本から3名が赴任して、海外市場開拓にあたりました。大変でしたが、すぐ横に相談できる仲間が折り、苦しいことばかりでしたが、青春のような感覚もありました。もう1名の赴任者とは同居しながら、試行錯誤の日々を送りました。

営業写真

中国の皆さんと共にゼロから事業を立ち上げ、日々一緒に食事をし、営業開拓とか、マネジメントだとか、国籍が混じって、あーだ、こーだ、議論しながら、進める仕事は、楽しくもありました。私の中国語力がまだまだ足りないため、うまくコミュニケーション取れない点が圧倒的に多く、苦しみ9割、たまに成功する1割という日々でした。

この時期に、今もWizWeでマーケティングのマネジャーとして活躍している廣瀬とも会いました。廣瀬は上海で中国人向けのサービスマインド研修を提供する会社で働いており、2008年の夏に上海で最初に会い、それからの縁となります。

また、最初の大きな売上は、上海ではなく、内陸部である四川省の成都市で獲得できました。成都ウィナーソフト様という会社があり、成都イトーヨーカドー様とも長い取引関係のある会社です。


実は、私が新卒で入社した会社はイオン株式会社(小売のイオンです。私に語学のイメージが付いているので、よく英会話のAEONと思われるのですが、小売のイオンです)でした。そんな私が、中国ビジネスという観点で、一番お世話になったのは、イオン(株)の小売業での最大のライバルであるイトーヨーカドー様でした。数奇というか、不思議なご縁を感じます。

成都イトーヨーカドーは単店舗あたりの利益率が、非常に高く、現地で本当に支持されているすごいお店でした。

『巨龍に挑む: 中国の流通を変えたイトーヨーカ堂のサムライたち』という本にも登場する皆様の近くでプロジェクトができたことは、大きな宝物になりました。直接のレポートラインが、本の登場人物の方々という機会に恵まれ、マネジメント上大切にしていることも直接お伺いすることができました。

今も、自分自身やWizWeの社員へ伝えているコトバは、イトーヨーカドー様に伝わる創業家のコトバである、

「お客様は来てくださらないもの」
「お取引先は売ってくださらないもの」
「銀行は貸してくださらないもの」

という考え方です。

現在WizWeは、習慣化プラットフォームとして、様々なコンテンツプロバイダ様や研修会社様とパートナーシップを結び、サービス提供をしていますが、日本における日本語eラーニング、そして中国市場展開、日本国内に回帰した後の語学事業の展開のどれをとっても、この3つの連続であったように思います。今でこそ、売上が伸び続けて、新たなコンテンツプロバイダ様の出会いも多くなっている環境が近づきつつありますが、この基本精神はずっと、心に刻んでいきたいと考えています。

私は、今となっては営業を天職と考えており、自分の一番の強みは、営業力と考えていますが、「そもそも外国籍社員がいない」「いきなり海外で日本語eラーニングを売るので、基本的に非常に困難。売れない」という、売上をつくることが、困難な状況が毎日の日常でした。

ですが、普通にやると売れない中で、サービスを購入いただくには、どうしたらいいか、皆で考えて、迅速に行動するというサイクルは、新しい学びが多くエキサイティングでもありました。

売上をつくるために、中国大陸において、自分で中国語で営業テレアポしたり、展示会に飛び込み営業をかけて即時プレゼンしたり、あるいは上海のビルを上から下まで、飛び込みでまわりつづけるビル倒しと呼ばれる営業手法をためしたり、売れる秘訣を探るために、AmwayやNewskinといったネットワーク商材の説明会に参加したり、などなど、考えられる営業手法を全部試しました。

今思うと、こうした経験一つ一つが、自分の営業力の血肉になっていったように思います。とても苦しい日々でしたが、フィリピンでの敗北経験があり、中国語では最後まで粘りたいという思いがあったこと、一番つらかった時に、内山社長から励ましをもらう(=カウンセリング&叱咤激励をもらい、ここでやり抜けと言われる)、当時共に赴任した仲間と支え合いながら、事業に取り組めたことで、最後の最後まで粘るという姿勢で皆仕事を続けられたように思います。


WizWeでは、今、共に働く仲間を大募集しています!